第3話 「魔法」より速い「当身」

第3話 「魔法」より速い「当身」


王都近郊、『迷い森』。 湿った苔の匂いと、腐った倒木が放つ微かな甘い死臭が、シルヴィアの鼻腔をくすぐっていた。 木々の隙間から差し込む木漏れ日が、彼女の漆黒の旅装を斑(まだら)に照らし出す。


「おい、新入り! 少しは緊張感を持てよ。ここは公爵家のサロンじゃねえんだぞ」


前を歩く青年魔導師・カインが、いら立ちを隠さずに吐き捨てた。 彼の背負った杖がカチャカチャと音を立てる。その後ろには、弓使いの少年と、重装備を誇示する剣士の姿があった。


「ご心配なく、殿方。周囲の気配(おと)は、すべて拾っておりますわ」


シルヴィアは淡々と答えた。 実際、彼女の聴覚は森の静寂の中に潜む、不規則な呼吸を捉えていた。 右前方、三十メートル。茂みの揺れ。 左後方、十メートル。木の上。 そして、正面。


「止まって」


シルヴィアが短く発した言葉を、カインは鼻で笑った。 「命令するな。リーダーは俺だ。お前みたいな護身術まがいの素人は……」


「――来ますわよ」


その瞬間、空気が震えた。 「ギギィッ!」という耳を刺すような悪臭漂う叫び声と共に、十数匹のゴブリンが前後左右から飛び出してきた。


「敵襲だ! 総員、構えろ!」


カインが杖を掲げ、大仰な動作で魔力を練り始める。 「火よ、我が命に応じ、紅蓮の劫火となって敵を灼け! ――火球(ファイアボール)!」


だが、その詠唱はあまりに悠長だった。 ゴブリンの一匹が、カインの詠唱の隙を突いて、錆びた鉈を振り上げ跳躍する。


「しまっ……! 詠唱が間に合わな――」


カインの視界が絶望に染まるより早く、シルヴィアの体が弾けた。 バキィッ! と、彼女の足元で乾いた小枝が砕け、湿った土が跳ね上がる。


「遅いですわ」


最短距離。無駄のない踏み込み。 シルヴィアの体は、地面を滑るようにカインの横をすり抜け、空中のゴブリンの懐へと潜り込んだ。


――振子突(ふりこづき)。


前傾姿勢から放たれた正拳は、文字通り「振子」のような滑らかな加速を伴い、ゴブリンの胸板を捉えた。 ドォン、という重い衝撃音。 ゴブリンの肋骨が砕ける嫌な感触が、シルヴィアの拳を通して脳に届く。 肉塊と化した魔物は、背後の大木をなぎ倒すほどの勢いで吹き飛んでいった。


「な……んだと……!?」


カインの驚愕を余所に、シルヴィアは即座に次の一歩を踏み出していた。 今度は左、背後。 弓使いの少年に迫る二匹の影。


シルヴィアは右足を軸に、コマのように鋭く回転した。 舞い上がる砂塵。


「はぁッ!」


――連蹴(れんげり)。


一撃目の回し蹴りが、一匹目の側頭部を捉えて首をへし折る。 その脚を地面に下ろすことなく、膝を畳み、二撃目の横蹴りを二匹目の喉仏へ。 ゴブリンは「カハッ」と短い音を漏らし、その場に棒切れのように倒れ伏した。


「魔法で焼き尽くすまで、待ってあげる義理はございませんわ」


シルヴィアの冷徹な声が、混沌とする戦場に響く。 残りのゴブリンたちが、仲間の無残な死体に一瞬怯んだ。


「ひ、火球(ファイアボール)!」 ようやくカインが魔法を放つが、焦りからか軌道が逸れ、茂みを無意味に焼くだけに終わる。 その爆音に逆上した残りの群れが、死を覚悟した猛攻を仕掛けてきた。


前後から四匹。 シルヴィアは目を閉じ、肌をなでる空気の揺らぎだけで敵の位置を特定した。 感情を殺し、ただ「理」に身を任せる。


(前、二。一歩踏み込んで内受。後ろ、二。回転して足払)


ビシッ、と地面が鳴った。 彼女が地を蹴り、敵のまっただ中へと踊り出る。


「ギィッ!?」 先頭のゴブリンの腕を取り、自身の回転エネルギーを上乗せして投げ飛ばす。 宙を舞うゴブリンが、仲間の頭上に激突した。 混乱する群れの中を、シルヴィアの拳と脚が縫うように走る。


「一点、二点。……次は、三点(みつて)ですわ」


――三連突(さんれんとつ)。 一呼吸の間に放たれた三撃が、三匹の魔物の心臓、喉、目を正確に貫く。 悲鳴を上げる暇さえない。 ただ、肉が打たれる湿った音だけが、森の静寂を塗り替えていく。


最後の一匹が、恐怖のあまり鉈を捨てて逃げ出そうとした。 シルヴィアは冷ややかに、その背中を見据える。


「逃がしませんわ」


地を這うような低い姿勢から、彼女の体が矢となって飛んだ。 追撃の二連蹴りが、ゴブリンの背骨を粉砕する。 土を噛むような鈍い音がして、すべての魔物が沈黙した。


静まり返った森の中で、シルヴィアはゆっくりと立ち上がり、乱れた道着の襟を整えた。 呼吸は穏やか。額に汗一つ浮かべていない。


「……信じられん。あんた、本当に人間か?」


カインが杖を杖がわりにし、へたり込みながら震える声で言った。 弓使いの少年も、剣士も、ただ呆然と彼女を見上げるしかない。 彼らが何分もかけて練り上げる魔法よりも、彼女の「当身」は遥かに速く、そして確実だった。


「人ですよ。ただ、あなた方より少しだけ、自分の体の使い道を熟知しているだけですわ」


シルヴィアは、自身の拳についた緑色の返り血を、ハンカチで優雅に拭った。 感情の昂りはない。あるのは、正しく技が機能したという、武人としての淡々とした充足感だけだ。


「魔法の詠唱、改善された方がよろしくてよ? 呪文を唱え終える前に首が飛んでしまっては、その高価な杖もただの焚き木ですもの」


「くっ……!」


カインは言い返せなかった。 シルヴィアが見せたのは、魔法という神秘を凌駕する、極限まで磨き抜かれた「肉体という現実」だったからだ。


「さあ、クエストを続けましょう。まだ奥に、もっと大きな気配(おと)が聞こえますわ」


彼女は再び、優雅に歩き出した。 その背中は、もはや守られるべき「令嬢」のものではない。 誰よりも冷酷で、誰よりも頼もしい、戦場の支配者のものだった。


木漏れ日の下、彼女の歩みはどこまでも軽く、そして鋭い。 その拳が次に何を砕くのか、森の魔物たちだけが、その死をもって知ることになる。


第3話 完


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