第2話 最初の試練
カオルは、遠くに見える山脈を目印に、慎重に森の中を進み始めた。
歩みはわずか数分で中断する。彼は早くもこの森が、単なる木々の集合体ではないことを思い知らされる。
前方の茂みが激しく騒いだ。
枝葉を折り砕いて、姿を現したのは鹿に似た獣。岩のように隆起した筋肉が全身を覆い、額からは槍の穂先を思わせる鋭利な一本角が突き出ている。
(この世界の生き物は凶暴か、それとも大人しいか、どっちだ……!)
異形の獣――ランスディアは、血走った目でカオルの姿を捉えるや、躊躇なく地面を蹴り砕いて突進し始める。
「うわっ!?」
喉から短い呼気が漏れる。
反射的に長槍を構えるが、素人が一朝一夕で扱えるほど、長柄の武器は甘くない。女神から授かった技能(スキル)が体を動かしてはくれるものの、精神が追いつかない。
小型馬ほどの質量を持つ生物が、殺意を持って迫りくる恐怖。平和な文明社会に浸りきったカオルの想像を絶していた。
振りは鋭いが、腕が虚しく空を泳ぐ。
ランスディアは拙い突きを嘲笑うかのように軽々とかわし、自らの凶器である一本角をカオルの胴へと突き立てた。
鈍重な衝撃が、体の芯を揺さぶる。
カオルの体は抗えない勢いに押されて、後方に弾かれ、足がよろめいた。
背中が巨木に叩きつけられて、ようやく止まった。大男が助走をつけて体当たりしてきたような圧力だった。
背中を打ち付けたが痛みはない。南蛮鎧の表面には傷一つなく、衝撃の余波だけが内臓を不快に揺らしていた。
(さすがに、最初の魔物で死ぬような難易度設定はしていないよな)
安堵したのも束の間。ランスディアは距離を取り、カオルの周囲を旋回し始めた。硬い殻をどう割って中身を喰らうか、思案しているようでもあった。
「人を全力で襲うからには、反撃されても悪く思うなよ」
カオルは穂先を向け、自分がこれから突き殺そうとしていることに向き合った。
(女神は、戦う世界だと教えるために、ここを始まりの地としたはずだ。ならば、応えよう。魔物を倒す!)
気合いの声とともに、踏み出し、槍を繰り出す。しかし、穂先は空を切る。
補正された鋭い突きも、戦いの呼吸を知らぬ者には豚に真珠。闇雲に振り回すカオルに対し、獣は本能で間合いを見切り、嘲笑うように回避を続ける。
強引な攻撃を重ねた末、カオルの呼吸が乱れ始めた。
好機と見たランスディアが突撃してきた。
避けようとしたカオルが、地面から一部だけ露出していた木の根につまずく。
「あっ」
意図しない方向に突き出た穂先が、獣の脇腹をかすめた。
次の瞬間、カオルは我が目を疑った。
軽く刃先が触れただけ。分厚い毛皮と筋肉が、熟した果実のように裂け、鮮血が飛散した。
(当てればいい。ほんのわずかでも、刃が届けば……!)
偶然の感触に、勝利への道筋が明白になる。
大きく振るう必要はない。触れるだけで致命傷になり得る切れ味。ならば、意識すべきは「点」の接触。
獣の傷は浅い。鼻息荒く、再び地を蹴る。
小刻みに体を振り、狙いを絞らせない狡猾な動き。だが、冷静に集中するカオルの目には、軌道が単調な直線に見え始めていた。
回避の癖。踏み込みの深さ。情報が蓄積されていく。
(次だ。次で、終わらせる)
カオルは足を止め、腰を深く落とした。石突きを地面に噛み込ませ、己自身を槍の台座と化す。
切っ先を、迫りくる獣の眉間、一点に狙いを定める。
突撃してくるランスディアが、直前で軌道を変えようとする。
カオルもまた、獣の意志をなぞるように穂先を修正した。
ズブリ、と。
生々しい感触が、柄を通して掌に伝わった。
抵抗は一瞬。
槍は頭蓋を紙のように貫き、
獣は短く
槍を引き抜くと、止めどなく溢れる赤黒い液体。敵意を宿していた瞳から、急速に光が失われていく。ただの物体へと変わる瞬間。
カオルは立ち尽くし、足元に広がる死を見下ろした。
かつての世界で奪った命など、蚊やハエ程度だった。これほどの質量を持つ生物の、温かな命を断つ感触。
胃の腑から酸っぱいものが込み上げてきた。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
吐き気を必死で噛み殺し、よろめくように離れ、木の根元へ崩れ落ちる。
心と体が「戦闘」という未知の経験と、疲労に悲鳴を上げていた。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が全身を濡らす。
その時だった。
体の芯から、熱い奔流が湧き上がった。
息切れも、筋肉の
「なんだ……? まるで、そうか。ゲームでレベルアップした時みたいに……」
カオルが自身の情報を意識すると、脳内に無機質な文字列が浮かび上がった。
名前: カミカワ・カオル レベル: 2 スキルポイント: 1
「やはり……」
レベルの上昇による身体の修復。疲労の回復と共に、恐怖や忌避感といった感情までもが平坦にならされていく。
新たに付与された「スキルポイント」。
能力を獲得するための対価。
カオルは迷わず、もっとも初歩的な、しかし現状もっとも不可欠な能力を選択した。
「今の私に必要なのは『情報』だ」
生きるために、知らないといけない。敵か、味方か。毒か、薬か。判断の遅れは死に直結する。
――鑑定。
念じた瞬間、脳天に杭を打ち込まれたような鋭い痛みが走った。
カオルは苦悶に顔を歪め、頭を抱える。
痛みは瞬きする間に消え去った。異物が脳に定着したような違和感に、深い溜息が漏れる。
「鑑定 Lv1」の習得。
(早速、試してみるか)
事切れたランスディアに視線を向ける。
使い方も知らぬはずの力が、まるで手足を動かすのと同様に、自然に発動した。
【名称】ランスディア
【状態】死亡
【詳細】食用可。ただし、肉は硬く臭みが強い。一本角、毛皮は素材価値あり。
【習性】***
【弱点】***
(魔物も食材になり得るか。毒の有無が判別できれば、生存率は跳ね上がる。……選んで正解だったな)
カオルは亡骸に歩み寄った。
毛並みは良く、筋肉は隆々としている。まだ体温が残っていた。
(血の匂いは捕食者を招くだろう。それに、これが食料や金になるなら、捨てる手はない。……全部、入るか)
腰の巾着袋に手を触れ、巨大な死骸を意識する。
すると、持ち上げるのに苦労しそうな質量が、音もなく歪み、巾着袋の小さな口へと吸い込まれていった。物理的な大きさも重さも無視した、不可思議な光景。
驚愕する間もなく、脳内に無機質な説明文が流れる。
【巾着袋(アイテムボックス):機能説明】
・生物収納不可。
・内部時間は凍結される。
・同一種は自動集積され、総数が表示される。
【アイテムリスト・追加】
・ランスディアの亡骸・1
「……腐敗せず、整理の手間も不要。実に合理的だ」
あまりに至れり尽くせりな機能に、カオルは感心して、軽く笑ってしまいそうだった。
装備品も鑑定してみる。
兜、鎧、籠手。詳細欄には「???」が並ぶが、追記された能力だけは理解できた。
【詳細】特殊能力。自動修復。自動洗浄。防錆。重量負担遮断。所持者限定装備。
「壊れても直り、汚れ知らず、重さを感じさせず、盗まれても誰も使えない。文句の付けようがない。……感謝します、女神様」
カオルは手を合わせ、感謝の祈りを捧げた。
「よし、レベルを上げて、手数を増やそう!」
仕切り直して、一歩を踏み出そうとした、その時だった。
背後から、岩塊に衝突されたような衝撃を受けた。
「がはっ……!?」
顔面から地面に叩きつけられる。
土にまみれた視界から顔を上げ振り返ると、血走った眼光と目が合った。別のランスディアだ。
周囲への警戒を怠っていた。
戦闘後の高揚感と、便利な能力に気を取られ、接近を許していた。己の不用心さに呆れる。
立ち上がろうとした刹那、二撃目が来る。
鋭い角が、南蛮鎧の
硬質な音が響き、カオルの体は一度浮き上がって後方へ弾き飛ばされた。
二転、三転。土と草の味が口に広がる。
「うわっ」
槍を構えようとするが、獣は追撃の手を緩めない。立ち上がる途中で吹き飛ばされ、今度は背後の巨木に上半身を打ち付けられた。
肺の中の空気が強制的に吐き出される。
(距離を……取らなければ!)
もがくように横へ飛び退く。
直後、カオルの頭があった場所に、ランスディアの一本角が突き刺さった。
ドスッ、という鈍い音。
カオルが動きを止めた。
獣の角は深々と幹に食い込み、先端は貫通して抜けない。
獣が苛立ち、吠え猛りながら暴れている。木屑が飛び散るが、それでも角は外れない。
鎧がなければ、人間の体など簡単に貫いている。まざまざと見せつけられて、背筋を氷のように冷たく撫で上げる。
カオルは震えを抑え込み、無防備な獣の首を槍で貫いた。
(食うか食われるかの、原始の世界だな)
周囲を見回し、安全を確認。
カオルは心の中で手を合わせ成仏を願うと、亡骸を袋に収納した。
あたりには、獣から流れ出た血によって鉄錆のような匂いと、内臓が放つ独特の生臭さが混じり合った悪臭がしている。そこで、カオルは来た道を引き返す選択をした。
目覚めの花園。そこは香料のような甘い匂いがしていた。
気分を一新したかった。それに加えて、過保護な女神であれば、目覚めた場所にも贈り物があるかもしれない。
カオルは二つの月を見上げた円形の花園に戻った。
まるで砂糖菓子が置いてあるかのように、甘い香りが気持ちを洗う。
鑑定スキルを通して見ると、世界は一変していた。
ただの雑草に思えたものが「上級ポーションの原料」として示され、咲き誇っている花も、ほとんどが香料の元になった。
そして、よく観察することで、異変に気付く。
奇妙な燐光が揺らめいている。
「……光?」
一輪の花だった。
日の光を浴びて、花弁が赤から紫へ、紫から青へ。呼吸をするようにゆっくりと、色を変える虹色の輝きをしていた。まるで意思を持つかのように、神秘的な脈動だった。
カオルは片膝をつき、意識を集中して鑑定する。
【名称:女神の
分類: 幻想花
概要: 何年かに一度、世界のどこかで、何の予兆もなく出現。開花する。開花期間は数時間。
効果: 手にする者に「微細な幸運」をもたらす。
状態: 開花中(残り時間:約四時間)
脳内に浮かび上がる情報の羅列を読み、カオルはほう、と息を漏らした。
「初期地点の隠しアイテム」
逸る気持ちを抑えきれずに人里へ向かえば、決して気付くことはなかった。
(幸運の上昇……数値化されていないのが惜しいが、確率の偏りを生む強化といったところか)
だが、説明文にある「残り時間」が無情な事実を告げている。
あと数時間もすれば、美しい虹色は枯れ果て、ただの植物片となる。まさしく女神の微睡みだ。
カオルは腰の巾着袋(アイテムボックス)に手を触れた。
脳裏に、ある仮説が閃く。女神から与えられた空間収納は、内部の「時間経過」を凍結させる機能を持つ。
ならば――。
(「枯れるまでの時間」も、止まるはずだ)
カオルは慎重に土を掘り返す。根を傷つけぬよう、球根ごと丁寧に。
掌に乗るほどの儚い命を、彼はそっとすくい上げた。虹色の光が、黒塗りの甲冑を幻想的に照らし出す。
「……いただきます」
呟きと共に、カオルは花を収納した。
ここぞという勝負所。 どうしても運を味方につけたい瞬間。 その時だけ袋から取り出し、用が済めば即座に収納して時間を止める。
本来ならばすぐ散るはずの「幸運」を、必要な一瞬だけ切り取って行使する。いわば、運命に対する介入。
(数年に一度の奇跡を、持ち歩ける)
カオルは引き返した判断に表情が和らいだ。
その後、獣が現れないか気をつけながら、花園の価値ある植物を大量に採取し、袋へ放り込む。
袋は膨らむことも重くなることもない。
「女神様の配慮、痛み入ります」
空を見上げ、心からの感謝を捧げた。
出発地点からは、もう何も得る物がないことを確認して歩みを再開する。
途中、ランスディアを見つけると倒し、鑑定スキルで価値ある物がないか見て回り、換金できる可能性がある物、自分がいつか使うかも知れない物をどんどん回収していく。
そうしながら移動していると、ランスディアを倒した時にレベルアップした。
名前: カミカワ・カオル レベル: 3 スキルポイント: 2
「獲得ポイントが増えるのか。レベル上げすれば、選択肢も増えるな」
新しい能力を取得するか、鑑定能力を上げるか。思考を巡らせようとした矢先、森の奥から地響きが伝わってきた。
巨木が爪楊枝のようにへし折られ、巨大な影が森を割って進んでくるのが見えた。
家屋ほどもある巨大な猪。牙は凶悪に反り返り、歩みの一つ一つが地震のように大地を揺らす。
鑑定の結果は、警告色を帯びて脳内に明滅した。
【名称】フォレストボア(変異種)
『警告:生命維持の危機。推奨行動:即時退避』
カオルは息を殺し、木陰に張り付いた。心臓の音がうるさいほどに鳴り響く。
ランスディアを倒して得た自信など、砂上の楼閣のように崩れ去った。
戦えば、鎧ごと踏み潰され、挽肉になる。理屈など不要の、圧倒的な暴力の具現。
(こんな場所で夜を明かせば、確実に死ぬ。日が落ちる前に、人里へ……!)
カオルは忍び足で、しかし一刻も早くこの場を離れるべく、森を進んだ。
鬱蒼とした緑の回廊を進む。
不意に、木々の隙間から眩いほどの黄金色の光が差し込んだ。
視線を向ければ、整った石畳の道が続いている。周囲の険しい藪とは対照的に、道の両脇には色鮮やかな花々が敷き詰められ、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(……手入れされた道だ。街道かな)
道は木々の間を貫いてどこまでも続き、遠方には豪奢な石造りの門のようなものさえ見えた。
人里への手がかりになる。カオルは迷わず、明るい日差しの中へ進み、石畳の道へと一歩を踏み出した。
次の瞬間、視界が歪んだ。
「――っ!?」
足下にあったはずの石畳が霧散する。
重力に引かれ、体が宙に浮いたと感じた刹那。全身を襲ったのは、冷徹な水の感触だった。
派手な飛沫と共に、カオルの体は池へと倒れ込んだ。
深さは腰ほどもなく、溺れる心配はない。だが、不意を突かれた衝撃と、鼻腔に飛び込んできた水に驚き、冷静さを一瞬で奪い取られた。
「がはっ、……げほっ!」
むせ返りながら立ち上がると、先ほどまで見えていた石畳と、道の脇で咲き乱れていた美しい花々も、遠くに見えた石作りの門も、どこにも存在しなかった。
カオルは池のほとりで、ずぶ濡れになっている。
透明度が高い、綺麗な水ではあったが、意味が分からず困惑する。
あたりを見回して、犯人らしき者を見つける。
「……あれ、なのか・・・・・?」
池から少し離れた、一本の太い枝の上に犯人はいた。
人間の手の平に乗るほどに小さな体躯。背中には薄い羽を備え、姿形は人間の少年のようだが、瞳には知性と底知れぬ悪戯心が宿っている。
そんな妖精達が何体か集まって、カオルを指差して腹を抱えて笑っていた。
「妖精……」
カオルは水に浸かったまま、座り込んでいる。初めて見る妖精に、興味津々で観察する。
少年の姿をした妖精たちは、池に落ち、無様に濡れ鼠となった戦士が、よほど滑稽に映ったのだろう。空中で何回転もして、カオルの姿を見ては笑い転げ、木々の深淵へと飛び去っていった。
静寂が戻る。
「街道は幻か。・・・・・・殺意がなくて助かったな」
毒、食あたり、風土病、それに幻に、精神攻撃。どんなに甲冑が頑丈でも、油断できない要素があるのだと、頭をよぎる。
「いたずら好きの妖精に怒っても仕方ない。ここは大人の冷静さで、平常心。平常心」
苛立つ気持ちもあったが、自分に言い聞かせて立ち上がる。
甲冑の洗浄機能が働き、表面の汚れは瞬く間に装甲から滑り落ちていく。
池から上がると、冷たい水が肌を伝う不快感はあったが、それも鎧の効果の延長線上なのか、肌着も急激に乾いていく。
カオルは自分の落ちた池を冷静に見回した。
水は澄んでいて、透明度は高い。元の体では見えなかったような、少し離れた場所で泳いでいる魚の姿が、水面下にいるのが把握できた。
ため息をつきながら池から上がる。
「いくら若くて健康でも、生水は危険だな」
喉の渇きを覚えていたカオルは、巾着袋に手を差し入れた。
自然と、水筒を掴むように手が動いた。
出てきたのは、円筒形の金属製の水筒。まるで羽根のように軽いが、蓋を外すと中身は水で満ちている。
いくら飲んでも次から次と水が湧き出てくる。なくなる気配はない。
「魔法の力は凄いな」
感心しながら水筒をしまうと、水面に写る顔に気付く。
「……別人だ」
見覚えのある四十男の疲れた顔ではなかった。
二十歳前後の、若々しい男。肌には張りがあり、瞳には力が宿っている。
カオルは恐る恐る、自分の頬に触れた。水面の若者も、同じように頬に触れる。
女神の言葉が蘇る。『新しい肉体』。
若返りではない。新しい体に転生したのだ。
端正な顔立ち。黒髪の一本一本も、艶がある。
カオルが四十年かけて積み重ねてきたシワ、苦労の痕跡も、何一つ刻まれてはいなかった。
「……女神様の好みか。新しい人生にちょうど良いな」
長年の人生経験に裏打ちされた冷静さで、新しい顔を静かに受け入れる。
転生の物語はありふれている。ただ、実現すると思ったことはなかった。夢じゃない。現実だ。
カオルは静かに口元を緩め、泉を後にした。
道すがら、目につく植物に鑑定の視線を向ける。繰り返すうちに、知識が経験として定着していく感覚があった。
カオルは、あたかもこの世界で生まれ育った狩人のように、無意識に草花の価値を選別し、採取し、歩みを進めていった。
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