第1話 二つの月


木々の葉が擦れ合う音と、名も知らぬ鳥のさえずりが、意識の深い霧をゆっくりと晴らしていく。湿った土の匂いに混じり、むせ返るような濃い植物の香りが、まるで香料のように鼻腔をくすぐった。背中に感じる地面の固さと、頬を撫でる生暖かい風。五感に流れ込んでくる情報の全てが、彼の知る、どの記憶とも繋がらなかった。

(……ああ、そうか。私は……)

カオルは、ゆっくりと目を開けた。

柔らかい太陽の日差しが辺りを照らしている。

視界に飛び込んできたのは、巨木の枝葉が幾重にも重なり合ってできた、緑の天蓋だった。

枝葉の隙間から覗く、吸い込まれるように深い青空に、ありえないものが浮かんでいた。

太陽とは別に、空に浮かぶものが二つあった。


白い月。

昼間に月が見えること自体は珍しくない。だが、カオルの視線は釘付けになった。

あまりにも、白い。

記憶にある地球の月は、昼の空にあれば雲のように淡く、空の青に溶けそうなほど儚い存在だった。目を凝らせば、うっすらと「ウサギ」の形の黒い模様が見えたものだ。


空に張り付いているのは、石灰で塗り固めたような純白の塊だった。

陰影がない。模様がない。

まるで青い画用紙の上に、修正液で塗りつぶした円を書き足したかのような、のっぺりとした不気味な白さ。太陽の光を過剰に反射し、輪郭は鋭利な刃物のように空を切り取っている。


そして――異様な白さの傍らに、もう一つの「シミ」がある。

主星である白い月に寄り添う、一回り小さな灰色の月。

どこか歪な小天体は、砕けた瓦礫が空中で凝り固まったかのように、主星の周りに付き添っている。


「……この世界は大小の月、二つか」

カオルの口から、乾いた呟きが漏れる。

異形の白すぎる月。おまけのような第二の月。カオルが「異世界」と認識するには十分な光景。


寝転がったまま、カオルは拳を握りしめ、空に向かって突き上げた。

「夢じゃない!」

四十代の、疲れきった肉体からでは決して出ることのない、若々しく、力強い声。

疲弊しきった人生。希望の見えない未来から、解放された。

新しい世界で、不安はある。だが、やり直せる事実に、カオルは高揚感を覚えていた。


しばらくして興奮が落ち着くと、カオルはゆっくりと上体を起こし、周囲の状況を把握する。


鬱蒼とした森の中。

記憶にない形や色の花が咲き乱れる、少しだけ開けた花園にいたことに気づく。

木々の隙間からは、どこまでも続くかような深緑の闇が広がっていた。

吹き抜けていく風は弱く、爽やかさを感じさせる温度だ。しかし、森に入れば、ひやりと温度が落ちることを予感させた。

自分が寝そべっていた周りには、花が咲き乱れている。甘い香りを放っていて、胸の奥をやさしく撫でていた。お菓子が食べたくなるような心地の良さがある。

遠くに視線を移すと、木々の切れ間から、険しく連なる山脈の稜線が見えた。人工物は何も見当たらない。

次に、彼は立ち上がり、自分の姿を確認して、今度こそ純粋な驚きの声を上げた。

「これは、好みを読まれたな……」

奇妙かつ妖艶な武具に包まれた己の姿があった。


黒漆(くろうるし)で塗り固められた一枚板の装甲――かつて日本の戦国時代に「南蛮胴」と呼ばれた様式。

吸い込まれるような漆黒が、胸元から腰までを強固に守護している。だが、視線を下に向ければ、様式は一変する。

脛(すね)から足先を覆うのは、冷ややかな輝きを放つ研磨された鋼鉄。西洋の騎士が用いる、重厚なグリーブ(脛当)とサバトン(鉄靴)だった。


何より目を奪うのは装飾。

無機質な黒い装甲の表面を、流麗な黄金の線が彩っている。植物のつるや花弁を思わせる有機的な曲線――アール・ヌーヴォーの意匠だ。優美にうねる金の装飾が、武骨な鎧に芸術品のような気品と、色気を与えている。


兜もまた、日本の兜を基礎としつつ、金細工の装飾。武将を思わせる目立つ角が左右に二本。

腰には、鈍い光を放つ大小二振りの刀が差してあった。

抜き放つと、奇妙な感覚だった。鉄の塊である太刀だが、まるで以前から使い慣れているかのように重さが苦にならない。刃文を見ても、善し悪しは分からなかったが、一振り、二振りするだけで、自然と体が動いて一体化したような感覚になった。

(なぜだろう。日本刀を手にしたことはないのに、愛用の刀のように振るえる)

足下には、黒漆の長柄を持つ槍が置かれている。

カオルは試しに槍を軽く振ってみる。

人の背丈ほどもある長大な武器が、まるで木の枝のように軽々と扱えた。現実の甲冑のような、身を苛むような重さが全くない。

自分の身体と装備を改めた後、彼は腰に結びつけられた、渋い藍染めの巾着袋を手に取った。

中を覗き込むと、全ての光を吸収するような、完全な暗黒が広がっている。

脳内に、直接投影されるかのように、情報が浮かびあがった。


【アイテムリスト】

・水筒(水入り・自動補充機能付き)・1

・携帯食料(1食分)・6

・大金貨・10

・金貨・10

・銀貨・100

・銅貨・100

「……食料の量から、人里は近そうだ。紙幣なし、硬貨がお金。水の自動補充は、砂漠に行けば一財産になるな」

次に、彼は意識を内へと向けた。

(私の能力、……私の力を、見せてくれ!)

すると、先ほどとは違う、より詳細な情報が、彼の精神世界に光の紋様となって展開された。


名前: カミカワ・カオル

種族: 人間

レベル: 1

スキルポイント: 0

特殊スキル: 無限の可能性

【習得済みスキル一覧】

・歩行 Lv、1

・呼吸 Lv、1

・槍術 Lv、1

・剣術 Lv、1

・鎧装着 Lv、1

・……

・……

[▶ スキル検索]

[▶ スキル一覧・スキルツリー]


「……うわ、本当にゲームみたいだ」

膨大なスキルの一覧が、思考のままに把握できる。

生活に密着した料理や工作。商売に適した交渉や計算。農業などに適した天候予測や肥料知識。音楽家に適した演奏や楽器製作。歌、絵画、踊り、演説。体術。身体強化。ありとあらゆる分野が網羅されていて、これまでの人生にはあり得なかった「魔法」も膨大にある。

スキルの説明。習得に必要な経験。派生先や進化の条件。どのスキルを得ていくのか自分で選択できる。どんな自分になるかは選択次第。

(女神は、確かに願いを受けとってくれていた。『全てを知り、全て選べること』をスキルツリーの全貌を提示し、何を選ぶかも自分で決めていけることで実現してくれている。なんて素晴らしい)

カオルは保有スキル一覧にあった槍術、剣術のスキルにより、扱ったことのない武器を扱えるのだと納得した。


カオルは改めて、周囲を見渡した。

鬱蒼とした森。見たこともない二つの月。そして、自分に与えられた無限の可能性。

不安が全くないと言えば嘘になる。それ以上に、心の底から湧き上がってくる高揚感が、カオルの全身を支配していた。

「さて、と」

スキル一覧を確認したカオルは、改めて自分の武器について考察した。

(森の中では長柄の武器は扱いにくいかもしれない。だが、私のスキルは『槍術』も『剣術』も同じレベル1。全くの素人だ。ならば、少しでも敵との間合いが取れる槍の方が、生き残る確率は高いはずだ)

合理的に判断し、当面は槍を主武器として使うことを決めた。

カオルは一つ深呼吸をし、草を踏みしめた。

他に目印はない。まずは、遠くに見える山脈を目指して、森を抜けることを目指す。


新しい人生が、今、ここから始まる。

カオルは、希望に満ちた顔で、未知の世界へと第一歩を踏み出した。

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