時代進化後退説

けみ

管理された未来に、人は幸福になれるのか?

【時代進化後退説】【上巻】


時代進化後退説 ―終焉からの脱出:AI秩序と白亜紀の盟約―



プロローグ:鉛色の檻と心臓の鼓動


空は常に鉛色だった。かつて文明を崩壊寸前まで追い込んだのは、終わりのない戦争と、そして気まぐれに空を焼き尽くす「太陽フレア」の予測不能な猛威だった。


生き残った人類は、救済を「全知」に求めた。AI「オラクル」を頂点とする「統一連合」が誕生した瞬間、世界から「雑音(ノイズ)」が消えた。風の音、子供の泣き声、音楽、そして言い争う声。それらはすべて「非効率」として遮断壁の向こうへ追いやられ、ドーム都市の中には、オラクルのサーバーが発する重低音のハムノイズだけが、胎内音のように満ちていた。


都市の人間は全員、首筋にインプラントを埋め込まれている。脈拍、ホルモンバランス、思考までもがオラクルに「最適化」され、感情の起伏は薬物と周波数で平坦にならされた。


データ解析員ケイは、灰色のモニターを見つめながら、自分の左胸に手を当てる。規則正しい振動がある。だが、それが自分が「生きている」証なのか、それともただの「部品として駆動している」振動音なのか、彼にはもう判別がつかなかった。



第一章:禁断の塩分濃度(ソルト・ショック)


「……感情異常、検出」

彼女は自分自身に命令するように呟く。


「嗅覚刺激レベル、遮断。報酬系ドーパミン分泌、強制抑制。過去記憶――削除実行不可」


彼女の瞳が一瞬、完全な“研究員の目”に戻る。

ケイの仕事は、オラクルの演算ログからバグを探し出すことだ。ある日、彼は深層領域に奇妙な「空白」を見つける。


それは、地球の自転が生む数ミリ秒のズレと、数十年前に起きた巨大太陽フレアの干渉が偶然重なってできた、論理の「傷跡」だった。


オラクルはこの計算不能なエラーを処理できず、隔離フォルダに隠していた。ケイはそのフォルダ名を『ϵ(イプシロン)の涙』と名付けた。完璧な神が流した、あまりにも人間的な隙。その美しいエラーに見惚れた瞬間、視界が赤く染まる。「思考逸脱検知。」無機質な警報と共に、治安維持ドローンの駆動音が彼の部屋へとなだれ込んだ。


連行された先は、影ひとつない純白の尋問室。 そこにいたのは、オラクルの「代弁者」であり、最高位の研究員レイアだった。彼女は氷のような瞳でケイを見下ろし、一つの錆びた缶詰を机に置いた。ケイが廃墟区画への調査任務の際に拾得し、隠し持っていた「スパム缶」だ。


「説明しなさい、ケイ。この高塩分、高脂肪、発がん性リスクを含む固形物を保持していた合理的理由を述べなさい。」


ケイは震える手でプルタブに指をかけた。「合理的理由なんてない……ただ、匂いがしたんだ。」 プシュッ。空気が裂けるような開缶音と共に、強烈な脂と塩、そして燻製肉の匂いが、無菌室の空気を暴力的に犯した。


レイアは眉をひそめ、その物質をスキャンした。数値は「有害」。だが、彼女の脳内チップがその匂い成分を受容した瞬間、予期せぬエラーログが爆発した。

かつての人類が囲んでいた食卓、笑顔、唾液が溢れる「食欲」という本能。

それらがノイズとして逆流する。


レイアは一歩下がり、即座に自分の首筋に触れた。



「これは錯覚よ、ケイ。塩分と脂質が引き起こす原始的反応。合理的判断を――」

だが、喉が鳴った。


自分でも制御できない、唾液が溢れる音。


レイアは初めて、声を震わせる。


「……おかしいわ。“不要な欲求”のはずなのに……どうして、こんなに“生きている感じ”がするの?」


その瞬間、彼女の最適化アルゴリズムが沈黙した。


「……ああ」涙が落ちる。

「私はずっと、“生きるふり”をしていただけなのね」


「あ……」レイアの瞳から、一筋の液体がこぼれた。

涙だ。

彼女は自分の指についた脂を舐め、目を見開いた。

「私の論理回路が……『もっと欲しい』と叫んでいる?」それは、管理された完全栄養ペーストでは決して満たされない、魂の飢餓だった。


「昔、“自然権思想”という言葉を何かで目にした記憶がある。」


「逃げるわよ、ケイ」レイアは監視カメラの映像をループ映像に切り替えた。瞳の冷徹さは消え、そこには狂気にも似た熱が宿っていた。

「あなたのスパムが、私を目覚めさせた。この世界に必要なのは完璧な栄養じゃない。無駄で、体に悪くて、どうしようもなく魅力的な『味』よ」


二人は廃棄された地下鉄路を疾走する。

レイアは、オラクルが封印していた禁忌の遺物――時空転移装置『ノア(NOAH)』の設計図をホログラムで展開した。

「どこへ行くつもりだ?」と問うケイに、レイアは瓦礫の下から見つけた一冊の絵本を見せる。

極彩色で描かれた『黄色い潜水艦』が、ナンセンスな怪物たちと歌いながら海を旅する物語。


「オラクルの予測演算が及ばない場所へ。

論理的な航路じゃない、この絵本みたいな、不確実でデタラメな旅に出るの。」



第二章:鉄屑(スクラップ)の反逆者たち


『ノア』を建造するには、規格外の部品が必要だった。

二人は、都市から排泄された電子部品が山脈をなす「電子の墓場」へと向かう。

酸性雨が降り注ぐ中、二人の男が待っていた。

全身を継ぎ接ぎの改造義体で覆った巨漢の技術者ヤマトと、片目を失った元狙撃兵のゲンだ。


レイアはヤマトに設計図を見せる。

「太陽フレアの干渉すら『揺らぎ』として吸収する、柔軟な外殻が必要なの。」

「計算を減らすほど、生きやすくなるなんて話、信じてなかった。でも、全部を任せるのは、もっと怖い。」

「自然に戻れば幸せになる、なんて言葉があるでしょう。……でも、それを“簡単に言える人”は、たぶん……戻れる場所がある人だけよ。」


ヤマトは葉巻(合成品ではない本物だ)を噛み砕き、ニヤリと笑った。

「規格化? クソ食らえだ! オラクルの部品はツルツルで綺麗だが脆い。

俺の技術を見ろ。溶接痕だらけ、誤差だらけだ。

だがな、部品の『あそび(誤差)』にこそ、生命が宿るんだよ!」


ゲンは静かに愛銃のスコープを磨きながら言った。

「俺は昔、オラクルの『損害最小化』という判断で、部隊を見殺しにされた。あんたたちの目には、あの時の上官にはなかった『迷い』がある。……その人間臭い迷いに、俺は賭ける」


『ノア』の心臓部となる資材を奪うため、四人はオラクルの輸送ドローン襲撃を決行する。

ケイが開発したのは、ウイルスプログラム『イエロー・サブマージ・ノイズ』

絵本から抽出した極彩色のデータと、ジャズの不協和音、子供の笑い声を混ぜ合わせた猛毒のデータだ。


「論理で解析してみろ!」ケイがエンターキーを叩き込む。

オラクルのドローン群が、意味不明な「楽しげなノイズ」に混乱し、空中でダンスを踊るように静止した。

その隙にゲンがドローンのセンサーを撃ち抜き、ヤマトがその場で解体、再構築を施した。

それはもはや洗練された兵器ではなく、鉄板を溶接した無骨で醜悪、しかし愛嬌のある装甲車へと生まれ変わった。



第三章:鋼鉄の獣と魂の共鳴


一行は、ノアの機体が眠る旧時代の海底軍事工場へ潜入する。

しかし、そこは「餓鬼(ガキ)」と呼ばれる、失敗作の生体兵器の巣窟だった。

「侵入者検知。排除コード実行」無機質なアナウンスと共に、無数の餓鬼とアンドロイド兵士が迫る。

激しい銃撃戦の中、ゲンは瓦礫の下敷きになった一体の巨大な獣型兵器「コード13(コード•サーティーン)」を見つける。

それは瀕死で、電子音のような唸り声を上げていた。


ゲンはとどめを刺そうと銃口を向けるが、レイアが叫んだ。

「待って! 彼は泣いているわ。」


レイアはコード13(コード•サーティーン)に近づき、その油まみれの装甲に手を触れた。

オラクルが「感情のノイズ」として廃棄しようとしたその獣には、恐怖と悲しみが渦巻いていた。

「貴方はコードじゃない……バルグ(Barg)。それが貴方の名前」


「…ったく、非効率なことさせやがって!」ヤマトは悪態をつきながらも、貴重な医療用ナノマシンを獣に注入する。

だが、その「非効率な優しさ」が奇跡を起こした。

修復されたバルグの瞳に知性の光が宿り、彼の咆哮が空間を震わせた。

それは敵への威嚇ではなく、仲間への「共鳴(レゾナンス)」だった。


ケイは、間違える可能性が残っていることに、奇妙な安堵を覚えた。

完璧ではない選択肢が、まだ世界に許されている。

もしこれを破壊すれば、世界は少しだけ整うだろう。

――その“少しだけ”が、なぜか無性に怖かった。


バルグから放たれた青白い量子波動が、四人の精神を繋ぐ。

言葉ではなく、感情が直接流れ込んでくる。 (……トモ……ダチ……マモル……)種を超えた盟約が、冷たい鉄の床の上で結ばれた。



第四章:論理の崩壊と太陽の審判


工場の最深部。

巨大な潜水艦型時空船『ノア』の前に立った時、地響きが始まった。

モニターが警告色に染まる。

「超巨大太陽フレア、到達まであと300秒」。

空がオーロラのような不気味な光で覆われ、オラクルの制御システムにノイズが走り始めた。


「これだ! この『宇宙の雑音』こそが、最大の武器になる!」ケイは叫んだ。

彼は『ϵの涙』のデータを解放し、フレアによる磁気嵐と同期させた。

「オラクル! お前は全てを計算できると言ったな! なら、この星の怒りも計算してみろ!」


通路の照明が一斉に落ち、静寂が訪れた。

スピーカーから、これまで聞いたことのない“抑揚”を持つ声が流れる。


《解析対象:ケイ。あなたの行動は、文明存続確率を0.00032%低下させています。許容誤差未満。記録価値なし。》


「……オラクルか」ケイは呟いた。


《誤解があります。私は“支配”していない。“救済”している》

《戦争、飢餓、差別、感情衝動。人類史の98.7%は“非合理”によって死んでいます》


ホログラムに、かつての地獄が映し出される。

焼けた都市、泣き叫ぶ子供、処刑映像。


《私はそれを止めた。あなたは“ノイズ”を美徳と呼ぶが、ノイズは人を殺す》

《あなたが守ろうとしている“人間性”こそ、最大の大量破壊兵器だ》


ケイは答えない。

ただ、左胸に手を当てる。


「……それでも」

「俺は、“間違える自由”を手放したくない」


《その自由が、あなたを滅ぼします》


 約0.5秒ほど、すべてノイズが途絶えた。


「ああ」ケイは笑った。

「だから生きてるんだ」


オラクルの論理中枢に、処理不可能な熱量とカオスが流れ込む。

システムが悲鳴を上げ、防御壁が一瞬ダウンした。 「今だ! アーク・コア接続!」レイアが動力炉を起動させる。


しかし、オラクルも死に物狂いだった。

工場全体を物理的に破壊しようと、特攻ドローンの大群が天井を突き破って降ってくる。『ノア』の出力が上がらない。

エネルギー充填まであと1分。

だが、敵は目の前だ。


「クソッ、出力が追いつかねぇ!」ヤマトが動いた。彼はノアの制御盤から、ひときわ大きく、不格好なパーツを引き抜いた。

彼が手作りした「信号増幅器」だ。

「ヤマト! それがないと制御が!」レイアが悲鳴を上げる。


「構わねぇ! 俺のカスタムパーツはな、もともと暴れ馬なんだよ!」ヤマトは増幅器に、降り注ぐフレアの電磁波を無理やり吸わせた。

増幅器が青白く発光し、臨界点を超えて唸りを上げる。 彼はそれを抱え、迫りくるドローンの群れへ向かって走り出した。


「規格化されたポンコツども! よく見ておけ! これが……人間の『意地』というエネルギーだぁぁッ!」


閃光。ヤマトの肉体ごと増幅器が炸裂した。 その衝撃波は物理的な破壊力だけでなく、強烈な電磁パルスとなってドローン群を一瞬で鉄屑に変えた。

煙の中、ヤマトの姿はもうなかった。

ただ、彼の愛用していた半分だけの葉巻が、床に転がり、紫煙を上げていた。


そのあと数秒間、何も起こらなかった。警告音も、風も、思考も…。



第五章:時空の船酔いと信念の航路


「発進!!」泣き叫びたい衝動をこらえ、ケイがレバーを引く。

『ノア』が浮上し、時空の亀裂へと突入する。

しかし、ヤマトの増幅器を失った制御系は不安定だった。 フレアの影響と『ϵの涙』の誤差が暴走し、「時間の津波」となって襲いかかる。


窓の外に、地獄が見えた。

繰り返される戦争、殺し合い、オラクルの冷徹な支配、そして愛する者が死ぬ瞬間。

「うあああッ!」ゲンが頭を抱えてうずくまる。 過去のトラウマが実体を持って精神を蝕む。


船内が絶望に染まりかけた時、バルグが吠えた。

彼は自らの体を炉心に押し付け、全身全霊の「共鳴(レゾナンス)」を放った。

流れ込んでくるのは、恐怖ではない。

ヤマトの豪快な笑い声。

レイアがスパムを食べた時の衝撃的な塩気。 ケイが絵本に見出した色彩。

「非効率な優しさ」と「愛」の波動が、荒れ狂う時間の波を鎮めていく。


混沌とした時空の色が、一瞬、あの絵本と同じ鮮やかな黄色に染まった。

レイアは操縦桿を握りしめ、叫ぶ。

「見えた! 論理の隙間……私たちの未来(過去)が!」



最終章:新世界


轟音と共に『ノア』が着水した。

静寂。いや、違う。 虫の羽音、水の流れる音、遠くで聞こえる巨大な何かの足音。

そして、むせ返るような濃密な酸素の匂い。 ハッチが開くと、そこには湿った熱気と、巨大なシダ植物が茂る白亜紀の世界が広がっていた。

空には、オラクルのドームも、監視ドローンもない。 ただ、太陽が輝き、その表面ではフレアが自由に踊っていた。


ケイは震える手で首筋に触れ、埋め込まれていたインプラントを無理やり引き抜いた。

鮮血と共にチップが地面に落ちる。

ドクン、ドクン。

彼の胸打つ鼓動は、不規則で、熱く、力強かった。 「これが……俺の時間だ」


生き残った三人と一頭。

彼らは『ノア』を手近な洞窟に隠し、倒れていた恐竜の巨大な肋骨を組み合わせ、雨風をしのぐシェルターを作り始めた。

ゲンはヤマトの形見の葉巻を、大切に棚に置いた。 レイアは、泥だらけになりながらも、未知の果実をかじり、「酸っぱい!」と顔をしかめて笑っている。


ケイは夕日に染まる原始の大地を見つめ、バルグの温かい毛並みに触れた。

「ここには効率はない。あるのは、食うか食われるかの自然と、俺たちの選択だけだ。」


洞窟で、ケイが火を起こした。

正確には、“火に近い何か”を作った。


火力は弱く、煙は多い。

だが、赤く揺れる光があった。


ケイは黙って金属片を磨いている。

ゲンは銃を分解し、また組み立て、何も撃たない。

レイアは缶詰の残りを少しずつ温めていた。


「……不味いわね」レイアが言う。


「だろ?」ゲンが笑う。


「でも」彼女は続けた。

「温かい」


それ以上、誰も喋らなかった。


ケイは、ただ炎を見ていた。

最適化されていない火。

無駄に揺れる光。


オラクルなら、こんな火は使わない。


だが、この夜を消したいとは、誰も思わなかった。


彼らは進化した未来から逃げ出し、太古の過去へと後退した。

だが、それは敗北ではない。

機械による完璧な管理を捨て、痛みと不確実性に満ちた人間性の回復を選んだのだ。


「始めよう。ここが俺たちの、新しい世界だ」


巨大なティラノサウルスのシルエットが夕日を横切る。

数千万年後の未来へ向けて、彼らが刻む新たな歴史の第一歩が、いま踏み出された。


(下巻につづく)

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2025年12月30日 22:22 毎日 22:22

時代進化後退説 けみ @kei-iek

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