第7話 融雪
目が覚めた瞬間、世界はまばゆいばかりの白に包まれていた。
それはかつてアパートの廊下で感じた、あの刺すような氷の白さではない。春の柔らかな陽光が、薄いカーテンを透かして部屋の隅々まで満たしている、穏やかな朝の光だ。
美咲はしばらくの間、天井の木目をぼんやりと眺めていた。
頬には、乾いてパリパリとした違和感がある。目元を指先でなぞると、いつの間にか流していたらしい涙の跡があった。
ひどく長く、そして胸が締め付けられるような夢を見ていた気がする。けれど、意識を覚醒の海へと浮上させるたびに、その夢の輪郭は砂の城が波にさらわれるように、サラサラと崩れて消えていった。
「……あれ?」
起き上がろうとして、美咲は自分の体の「軽さ」に当惑した。
一月の頃からずっと、肩に重い石でも乗せられているような、あるいは肺の中に冷たい泥が詰まっているような、あの特有の息苦しさがない。
年度末の焦燥も、自分を「代わりのきく部品」だと卑下していたあの鋭い孤独も、まるで嘘のように霧散している。
ただ、胸の真ん中に、ぽっかりと小さな穴が開いているような、奇妙な空虚感だけが居座っていた。けれどその穴からは、冷たい風ではなく、どこか懐かしい冬の名残のような、優しい涼やかさが流れてくるのだった。
美咲は身支度を整え、重いパンプスではなく、新調したばかりの春らしい靴を選んで部屋を出た。
ふと、隣の三〇二号室の前に目が留まる。
そこには、昨夜まで誰かがいたような、かすかな気配さえ残っていなかった。
ドアの横の表札は真っ白で、郵便受けの入り口には「空室」と書かれた古びたシールが貼られている。美咲はその前で、吸い寄せられるように足を止めた。
「……ここ、誰か住んでたような」
その時、廊下の向こうからゴミ袋を抱えた大家の老婆が歩いてきた。美咲は、喉の奥に引っかかった魚の骨のような違和感を解消したくて、老婆を呼び止めた。
「あ、大家さん。おはようございます。……三〇二号室って、誰か引っ越したんですか? 昨日まで、誰かいたような気がして」
老婆は足を止め、老眼鏡をずらして不思議そうに美咲を見た。
「桜井さん、寝ぼけてるのかい? 三〇二号室は、去年の秋に前の人が出ていってから、ずっと空いたままだよ。……ほら、昨日ようやくクリーニングの業者が入ったばかりでね、今日から新しい入居者の募集を貼り出すところなんだ。ずっと暗かっただろう?」
「……ずっと、空室?」
「そうだよ。誰もいやしない。…ずっと空室だった割にずいぶん綺麗だねぇって業者さんと話してたんだよ」
大家は「変なことを聞くね」と笑いながら、階段を降りていった。
美咲は、誰もいないドアを見つめたまま、凍りついたように立ち尽くした。
記憶の断片が、意識の裏側で激しく明滅する。
雪の日、白いマフラー、異常なほど冷たかった指先。エアコンの唸る音、二人で食べたバニラアイス、沈丁花の濃厚な香り。
けれど、それらの断片を繋ぎ止めるための「名前」が、どうしても出てこない。
誰かと一緒に、夜の桜を見に行った気がする。
自分よりもずっと背が高い誰かを、支えて歩いた気がする。
その人は、自分の代わりに「冬」を持っていくと言った。自分のために、笑ってほしいと言った。
「思い出せない……。誰、だったの?」
必死に記憶の糸を辿ろうとするが、追えば追うほど、それは透明な水の中に溶けて消えてしまう。世界から、その人の存在した証拠が、最初からなかったことにされている。
美咲は、自分の手を見た。
かつて、誰かに触れて赤く腫れていたはずの指先は、今は驚くほど滑らかで、健康的な色をしていた。
駅へと向かう道すがら、世界は残酷なまでの美しさで春を祝福していた。
街路樹の桜は一気に散り始め、歩道は薄紅色の絨毯で埋め尽くされている。風が吹くたびに花弁が舞い上がり、春の熱を帯びた空気が美咲の頬を撫でていく。
信号待ちをしている最中、美咲は自分のバッグがいつもより膨らんでいることに気づいた。
中を確認すると、そこには、自分が買った覚えのない「白い布」が入っていた。
美咲はそれを取り出し、街角で広げた。
それは、厚手の、どこまでも純白なマフラーだった。
「これ……私のじゃない。……どうして」
なぜ自分がこれを持っているのか。誰から預かったものなのか。
そのマフラーに顔を埋めると、春の熱気とは無縁の、しんとした冬の匂いがした。雪が降る直前の、あの静謐で、どこか寂しくて、けれど清らかな空気。
その匂いを感じた瞬間、美咲の心の中に、言葉にならない感情が濁流となって押し寄せた。
「……っ」
理由も分からず、涙が溢れて止まらなくなった。
道ゆく人々が、不思議そうに美咲を振り返る。けれど、美咲は溢れる涙を拭うことさえ忘れ、その白いマフラーを痛いほど強く抱きしめた。
自分は、何かとても大切なものを失った。
自分の人生の半分を占めるような、重くて冷たい、かけがえのない何かを。
けれど、その引き換えに、自分は今、こうして春の光の中に立っていられる。
彼が――名前も思い出せない誰かが、私の「冬」をすべて吸い取ってくれたから。
かつて自分を苦しめていたあの冷たさは、今、このマフラーとなって自分の手元に残されているのだ。
「……ありがとう」
誰に向けたものかも分からない言葉が、嗚咽に混じって口を突いて出た。
彼は消えたのではない。
自分の痛みと一緒に、この春の風の中に溶けていったのだ。
自分がこのマフラーを巻く必要がなくなるまで、彼は、自分のすぐそばに、目に見えない冬の名残として寄り添ってくれている。
信号が青に変わる。
美咲は涙を拭い、一度だけ、大きく深呼吸をした。
バッグの中の白いマフラーは、もう以前のように凍えるほどの冷たさは放っていない。ただ、少しだけ、ひんやりとした優しい温度で、美咲の指先に触れていた。
歩き出した美咲の足取りは、驚くほど軽やかだった。
公園の桜は散り、地面を流れる雪解け水は、土の奥深くで眠る新しい命を潤している。
終わる季節があれば、始まる季節がある。
誰かが持ち去ってくれた悲しみのあとに、新しい芽が吹く。
ふと、背後から冷たい風が吹き抜け、美咲の髪をさらった。
それは春の熱気に混じった、冬からの最後の、愛おしい別れの挨拶のようだった。
美咲は振り返らず、けれど確かな微笑みを浮かべて、光あふれる街へと踏み出した。
彼女はもう、寒くはなかった。
三月のユキヒトは、春の風に溶ける 紫月レイ @shizuki_rei
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