第6話 花冷
三月の終わり、街は暴力的なまでの春の熱気に浮かされていた。
しかし、その日の夜は、まるで空が誰かの悲鳴を聞きつけたかのように、急激な冷え込みが街を襲った。昼間の二十度超えが嘘のように、鋭く、硬い夜気が街を支配する。去りゆく冬が、最後の一息を吐き出し、春の喉元を掴んで離さないような、そんな凍てつく夜だった。
美咲は、一歩進むたびにその輪郭を夜の闇に溶かしていく白川柊を、必死に支えていた。
柊の体はもはや、美咲が触れている感覚すらおぼつかないほどに希薄だった。彼の着ている白いシャツは風を孕んで力なく揺れ、その下にあるはずの肌は、背景の景色が透けて見えるほどに透明度を増している。
「……白川さん、あそこです。もうすぐですから。頑張って」
「……ええ。……大丈夫です。この寒さが、僕に最後の力を貸してくれている」
柊の声は、まるで遠い異国から届く無線のように掠れていた。
二人が辿り着いたのは、街外れにある、手入れの行き届かない小さな公園だった。そこには、周囲の街灯を拒絶するように一本の巨大な桜の木が立っていた。
昼間の熱気に煽られ、狂い咲いたような満開の桜。薄紅色の花弁が幾重にも重なり合い、不気味なほど鮮やかに夜の中に浮かび上がっている。
柊は美咲の手を借りて、ようやくその木の根元に辿り着いた。彼は、初めて目にする「本物の春の色」を前に、言葉を失ったように立ち尽くした。
「……これが、あなたの言っていた、春。……怖いほどに、熱い色をしていますね。命を燃やし尽くそうとしているような、そんな色だ」
柊は、震える手をゆっくりと伸ばした。
舞い落ちる一片の花弁が、彼の透き通った指先に触れた瞬間、パチリ、と小さな火花が散ったような幻聴がした。花弁の持つ微かな熱が、彼の指先を霧へと変え、夜気に溶かしていく。
「白川さん、もう十分ですよ。帰りましょう、今すぐ部屋に戻って、エアコンを入れれば……!」
「いいえ、桜井さん。……見てください。これほど美しいものに触れて、消えられるなら……ただの掃除屋として終わるはずだった僕には、勿体ないくらいの最期です」
柊はそう言って、この一ヶ月で最も穏やかな、けれど最も悲しい微笑みを美咲に向けた。その瞳は、もはや冬の朝の霧のように霞んでいる。
「嫌だよ……。私を置いていかないで。やっと、私の隣にいてくれる人を見つけたのに。誰からも見てもらえなかった私を、白川さんだけが見つけてくれたのに!」
美咲は柊のシャツの袖を、自分の体温が伝わらないギリギリの力で、けれど引きちぎらんばかりの執着で握りしめた。
「白川さんが消えたら、世界はあなたのことを忘れるんでしょう? 明日、私が目を覚ました時、あなたの名前を思い出せなくなっているなんて、そんなの耐えられない! お願い、消えないで。……一緒に、冬まで逃げよう?」
美咲の叫びに対し、柊は慈しむような眼差しを向けると、ついに自らの首元を厳重に守っていた、あの白いマフラーに手をかけた。
「……白川さん、何をして……ダメ、それを外したら!」
「これまでの僕は、この街で独りぼっちで、冷たいゴミを拾うだけの影でした。……でも、あなたに名前を呼ばれたあの日から、僕は自分が、白川柊という一人の男になったような気がしたんです」
柊は、一巻き、また一巻きと、彼をこの世界に縛り付けていた唯一の鎖を解いていく。
「マフラーを外したら、今すぐ霧になっちゃう! やめて、お願いだから!」
「……いいんです。最後は、あなたに、本当の僕を見てほしい。マフラーの下に隠していた、醜い冬の残骸ではなく……。あなたを、愛してしまった、一人の男としての僕を」
最後の一巻きが解け、白いマフラーが美咲の足元に力なく落ちた。
その瞬間、柊の首元から、これまで彼が体内に押し込めてきた膨大な「冬の澱」が、まばゆいばかりの青白い光の粒子となって溢れ出した。街中の人々が冬の間に溜め込んだ悲しみ、孤独、行き場のない後悔。それらが浄化され、桜の木を包み込む光の帯となって舞い上がる。
「……あ、あぁ……」
柊の体は、見る間に実体を失っていった。背景の桜吹雪が彼の胸越しに透け、彼の輪郭は夜の風に溶け出して、千切れそうに揺れている。
美咲はたまらず、消えゆく彼を抱きしめようと飛び込んだ。けれど、美咲の腕は、冷たい霧を掻き分けるだけで、そこにはもう、確かな体温も、確かな形もなかった。
「白川さん! 嘘だ……消えないで! 私、あなたを忘れたくない! あなたの声を、あの部屋の冷たさを、忘れたくないよ!」
美咲は地面に膝をつき、彼のいたはずの空間に向かって泣き叫んだ。もはや、触れることさえ叶わない。
霧となった柊の声が、美咲の耳元で、風のように優しく、けれどはっきりと響いた。
『……悲しまないで、美咲さん。……あなたが僕を忘れるのは、あなたが本当の春を迎えるために、必要なことなんです』
「そんなの、いらない! 忘れてしまうくらいなら、私はずっと、痛いままがいい! ずっと冬のままでいい!」
『……ダメです。……僕が預かったあなたの冬は、僕が一緒に連れて行きます。だから、あなたはもう、寒くないはずです。……見てください、あなたの手。……赤みが、引いているでしょう?』
美咲は、自分の手を見た。
出会ったあの日、彼に触れて火傷のように赤く腫れていた指先。一ヶ月間、ずっと痛み、疼いていたあの場所が、今は、驚くほど滑らかな肌色に戻っていた。
痛みも、痺れも、跡形もなく消えている。
彼が、美咲の「痛み」を、すべて持っていこうとしているのだ。記憶という、一番大切な痛みさえも。
「……ひどいよ。……そんなの、あんまりだよ。白川さん、あなたがいなきゃ、私、また一人になっちゃう……」
『……僕を、忘れて。……そして、明日からは、自分のために笑ってください。……それが、僕の……最初で最後の、わがままです。……出会ってくれて、ありがとう。美咲さん』
柊の形をした霧が、ゆっくりと美咲の頬を撫でた。
それは驚くほど冷たく、けれど、どんな抱擁よりも深く、美咲の心に刻まれた。
美咲が最後に見たのは、透き通った彼が、満開の桜に包まれながら、少年のような純粋な笑みを浮かべる姿だった。
「好き。……好きです、白川さん! 私、絶対忘れないから……!」
美咲の叫びに応えるように、一陣の強い夜風が吹き抜けた。
本物の桜吹雪と、柊だった白い霧が混ざり合い、夜空に向かって高く、高く舞い上がる。
一瞬、光が強まり、視界が真っ白に染まった。
……次に美咲が目を開けたとき。
そこには、ただ一本の桜の木が、静かに枝を揺らしているだけだった。
風は止み、夜の公園には、静寂だけが降り積もっている。
ベンチの上には、彼が巻いていた一本の白いマフラーだけが、ポツンと残されていた。
美咲は、そのマフラーを抱きしめた。
けれど、もうそこには氷の匂いも、彼の気配もなかった。
ただ、戻ってきた冬の冷気が、美咲の頬の涙を、静かに乾かしていくだけだった。
美咲は、自分が何を失ったのか、なぜこれほどまでに泣いているのか。
その理由が、砂時計の砂がこぼれるように、指の間からサラサラと零れ落ちていくのを感じていた。
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