第5話 氷華
三月が死に、四月が産声を上げようとしていた。
街は、残酷なほどの「生」のエネルギーに満ち溢れている。公園の桜は一斉にその蕾を解き放ち、薄紅色の雲が空を覆い尽くしていた。人々はコートを脱ぎ捨て、半袖に近い軽装で、浮かれたように春の風を吸い込んでいる。
電光掲示板に表示された気温は「二十二度」。
桜井美咲にとっては、それは世界が燃え上がっているような、絶望的な数字だった。
「体調が悪いので、お先に失礼します」
同僚の怪訝そうな視線を背中に受けながら、美咲は逃げるようにオフィスを飛び出した。
駅までの道すがら、眩しい陽光が美咲の頬を焼く。街角のカフェから流れてくる陽気な音楽も、通り過ぎる人々の笑い声も、今の美咲には柊を追い詰めるための葬送の合唱にしか聞こえなかった。
大量の保冷剤と氷の袋を抱え、美咲はアパートの階段を駆け上がった。
三〇二号室の前に立っただけで、ドアの隙間から漏れ出す冷気が、三月の熱気に触れて白い霧となって足元を這い回っている。
「白川さん! 入りますよ!」
美咲が鍵を開けて飛び込んだ室内は、もはや異界だった。
設定温度限界の冷房は、もはや温風を吐き出しているのではないかと思えるほど力なく、部屋の隅々まで外気の熱が侵食している。けれど、それ以上に異常だったのは、部屋の壁や床の光景だ。
柊の体から抑えきれずに漏れ出した「冬の澱」が、部屋中の水分を強制的に凍らせ、結晶化させていた。
銀色の断熱材の上には、まるで本物の花びらを一枚ずつ貼り付けたような、繊細で鋭利な白い霜の結晶が、びっしりと咲き誇っている。それは光を反射してダイヤモンドのように輝き、あまりにも美しく、そして死の匂いがした。
「……桜井、さん。……また、無理をして」
パイプベッドの上に横たわる柊の姿を見て、美咲は持っていた氷の袋を床に落とした。
彼の体は、腰から下が完全に透き通っていた。シーツの模様が、彼の体越しに透けて見えている。マフラーの隙間からは、絶え間なく白く細かな粒子が溢れ出し、それが壁に触れるたび、新たな白い結晶の花を咲かせていく。
「白川さん、これ……氷を、もっと買ってきました。今冷やしますから」
美咲は震える手で氷の袋を彼の胸元に並べた。けれど、柊は弱々しく首を振る。
透き通った彼の指先が、美咲の手に触れる寸前で止まった。
「……もう、器の限界です。外の春が、僕の中の冬を無理やり引きずり出そうとしている。……この結晶は、僕がこの街から奪ってきた、みんなの悲しみの形です。……綺麗でしょう。凍らせてしまえば、あんなに汚かった感情も、こんなに静かになる」
柊の言葉通り、壁を埋め尽くす白い花々は、触れれば指が切れるほど鋭く、冷徹な美しさを湛えていた。美咲は、その結晶の一つを指先で見つめた。そこには、柊が一人で背負ってきた数えきれないほどの冬の重みが詰まっているのだ。
「……白川さん。お願い、消えないで。まだ、桜も見ていないのに」
美咲の問いかけに、柊はゆっくりと瞬きをした。
彼の瞳は、もはや焦点が合いにくいほど薄く、冬の朝の霧のように霞んでいる。
「……本物の桜。……僕は、それを一度も見たことがありません。僕が生まれるのはいつも雪の日で、死ぬのは……霧に還るのは、いつも花が咲く前だったから。……桜井さんが教えてくれた、あの薄紅色の景色を、一度でいいから、この目で見たい」
それは、季節を司る掃除屋として、決して抱いてはならない禁忌の願いだった。
自分の役割を忘れ、一人の存在として春に憧れる。その「熱」こそが、彼を内側から溶かす一番の毒になるというのに。
「……せめて、これだけでも。僕を覚えていてくれる、あなたへの……贈り物です」
柊が、最後の一滴を絞り出すようにして、空中に指を走らせた。
すると、彼の指先から溢れ出した白い霧が、重力に逆らって美咲の目の前で渦を巻く。
霧は一瞬で結晶化し、天井から降り注ぐように、数えきれないほどの「氷の桜」となって部屋の中を舞い始めた。
壁に咲いた結晶とは違う。
それは、五枚の花弁を持ち、風に揺れるように舞い落ちる、完璧な桜の形をしていた。
銀色のシートに囲まれた殺風景な部屋が、一瞬にして、白銀の桜吹雪に満たされる。
「あ……」
美咲は、その美しさに息を呑んだ。
舞い落ちる結晶の一片に触れようと手を伸ばすが、それは美咲の体温に触れる前に、切ないほどあっけなく霧となって消えてしまう。
柊の作った桜は、美しくて、冷たくて、けれど触れることさえ許されない。
彼の存在そのものだった。
「……綺麗。……白川さん、本当に綺麗です」
美咲の頬を、熱い涙が伝う。
けれど、美咲はその涙を拭うことさえできなかった。自分の体から溢れる「熱」が、この美しい白銀の光景を壊し、彼をさらに追い詰めてしまうことが怖かった。
夕暮れが訪れ、ようやく窓の向こうの太陽がその勢いを失い始める。
二十二度あった気温は、少しずつ、夜の帳(とばり)とともに下降していく。
「……桜井さん。……今夜、僕を……あの場所へ連れて行ってくれませんか。……本物の、桜の下へ」
柊の声は、もう耳を澄まさなければ聞こえないほどかすれていた。
美咲は、その願いが彼にとって何を意味するのかを理解していた。冷房の効いたこの「氷室」を出ることは、彼が霧に還るまでの時間を、数時間、あるいは数分にまで短縮してしまう自殺行為だ。
けれど、美咲に「ダメ」と言うことはできなかった。
誰にも知られず、誰の記憶にも残らず、ただ冬の掃除をして消えていくだけの彼に、一度だけでもいいから、この世界に参加してほしかった。
たとえ明日、美咲の記憶から彼の名前が消えてしまったとしても。
この夜、二人で桜を見たという「熱」だけは、何かに刻まれると信じたかった。
「……行きましょう、白川さん。……あなたの春を、見つけに」
美咲は、ベッドからゆっくりと体を起こした柊を、自分の体温が伝わらないように慎重に、けれど心は強く抱きしめるような想いで支えた。
部屋を埋め尽くしていた白い結晶の花々が、二人の移動に合わせて、さらさらと音を立てて砕け、床に降り積もっていく。
夜の風は、まだ少しだけ、冬の余韻を残しているはずだ。
二人は、静まり返ったアパートを後にした。
一歩踏み出すたびに、柊の形が、夜の闇に溶け出していくのを感じながら。
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