第4話 余寒

三月も半ばを過ぎると、世界は暴力的なまでの光を湛えて「春」へと突き進んでいった。

 オフィスの窓から差し込む陽光は、もはや冬の頼りなさは微塵もなく、執拗なまでの熱を帯びてデスクの上の書類を白く飛ばしている。


「桜井さん、お花見どうする? 来週末、目黒川の方で予定してるんだけど」

 給湯室で隣になった後輩の女子社員が、スマホの画面を見せながら屈託のない笑顔を向けてくる。画面の中には、去年のものだろうか、青空を埋め尽くすような満開の桜が映し出されていた。


「あ……ごめん、まだ予定が分からなくて」

「えー、もったいない。やっと温かくなって、コートもいらなくなったのに。春を楽しまないと損ですよ」


 損、という言葉が美咲の胸に冷たく刺さった。

 世間にとっての春は、新しい服を買い、誰かと酒を酌み交わし、華やかな彩りを楽しむ祝祭だ。けれど今の美咲にとって、この眩しい光は、隣室でひっそりと命を削っている白川柊を追い詰める、無慈悲な照明弾にしか見えなかった。


 周囲の笑い声が遠のいていく。

 美咲は、自分がこの「温かな世界」から、少しずつはみ出していくのを感じていた。

 かつての自分も、この後輩と同じように春を待ち望んでいたはずだ。冬の重いコートを脱ぎ捨てて、軽やかになりたいと願っていた。けれど、柊の秘密を知ってからの自分は、夜道を歩きながら少しでも気温が下がることを祈り、冷たい風を探して歩くようになっている。


 それは、単なる同情ではなかった。柊が吸い取ってくれたという「冬の澱」。そのおかげで、今の自分は呼吸ができている。彼が代わりのきかない痛みを持ってくれたから、自分はこうして立っていられるのだ。そう思うたびに、美咲は彼に対して、共犯者のような、あるいは運命共同体のような、ひどく濃密で切実な執着を感じ始めていた。


 残業を終え、コンビニで氷の袋をいくつか買い込んでアパートへ戻る。

 三〇二号室のドアを開けると、設定温度十六度の冷房が、乾燥した唸り声を上げて吹き荒れていた。


「……白川さん?」


 部屋の隅、パイプベッドの上に柊は横たわっていた。

 以前よりもさらに体は薄く、シーツに沈み込んでいるように見える。彼の首元を覆う白いマフラーの隙間からは、白く濁った霧が断続的に溢れ出し、床の上に澱んでいた。


「……桜井さん、ですか。……すみません、今日は、出迎えられなくて」


 柊が顔を上げた。その肌は、もはや大理石というよりは、磨き抜かれた氷の破片のように透き通っている。美咲は買ってきた氷の袋を枕元に置き、その冷気が少しでも彼に届くように願った。


「いいんです、そんなの。……今日も、外は暑かったから」

「そうですね。……窓をこれだけ塞いでいても、外が温かくなっていくのが分かります。空気の重さが、変わっていくんです」


 柊の声は、掠れて、今にも霧の中に消えてしまいそうだった。

 美咲はベッドの傍らの床に腰を下ろした。柊の体内から漏れ出している霧が、美咲の膝を冷たく濡らす。その霧に指先が触れた瞬間、美咲の脳裏に断片的な光景が、見知らぬ誰かの溜息とともに流れ込んできた。


――去っていった恋人の背中。

――一人で食べた、味のしないクリスマスの夕食。

――誰にも必要とされていないと感じた、冬の真夜中の静寂。


 それは、柊がこの街で集めてきた、名もなき人々の「孤独」の残滓だった。

 けれど、その冷たい渦の中に、見覚えのある鮮明な色彩が混じっていることに気づき、美咲は息を呑んだ。


「……これは」


 美咲の視界がぐにゃりと歪み、脳裏に一月の凍てつくような深夜の記憶が突き刺さった。

 プロジェクトのミスを一人で押しつけられ、誰もいないオフィスで最後の一人になるまで残業していた、あの夜。自分がどれだけ必死に働いても、この街ではただの「交換可能な部品」に過ぎないのだと突きつけられ、堪えきれずにこぼした、あの時の冷たい絶望。

 柊が触れた霧は、間違いなくあの夜、美咲の心から剥がれ落ちた痛みそのものだった。


「これ、私の……。白川さん、あの時、私の隣にいてくれたから……」


 十二月に彼が隣に越してきたあの日から、理由もなく心が軽くなっていた答えが、そこにあった。美咲は、伸ばしかけた手を止めることができなかった。

 けれど、柊はそんな美咲の言葉を拒絶するように、静かに首を振った。


「僕は、季節が移り変わるたびに、この街から姿を消すだけではありません。僕が消える時、僕と関わったすべての人たちの記憶からも、僕という存在は完全に消去されるんです」


 柊の声は、淡々と、けれど逃れられない世界の理を突きつけた。


「明日、僕が霧に還れば、あなたの中からも『白川柊』という名前は失われます。この三〇二号室は、最初からずっと入居者などいない空室だったことになる。誰の心にも跡を残さず、当たり前に、最初からいなかったかのように消えていく。それが僕たちの宿命なんです」


 初めからこの世にいなかったかのように、誰の記憶にも、記録にも残らない。それがユキヒトの宿命であり、この街を浄化するための絶対のルール。

 美咲と過ごしたこの日々の欠片さえ、春風が吹けば、跡形もなく掻き消されてしまうのだ。


「誰の心にも跡を残さず、ただ冬を片付けて消えていく。それが当たり前だと思っていました。……でも、桜井さん。あなたに名前を呼ばれて、こうして部屋に訪ねてきてもらえるようになってから……初めて、僕は消えたくないと願ってしまった」


 柊の言葉には、氷のような冷たさとは裏腹に、痛いほどの熱がこもっていた。

 ユキヒトにとって、感情を持つことは内側から溶けることを意味する。彼は、美咲という「温かさ」を知ったことで、自分を維持するための氷を、自ら溶かしてしまっていた。


「白川さん。……私、あなたを忘れたくない。消えてほしくない。……世界があなたを忘れても、私だけは、あなたの冬を覚えているから」


 美咲の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 その雫は柊の肌に届く前に、彼の放つ冷気によって一瞬で凍り、小さな、けれど鋭い音を立てて床の上で砕け散った。


「……ひどい。こんなに近くにいるのに、助けてあげることもできないなんて」


 美咲の声が、冷房の音にかき消されていく。

 柊は、砕けた涙の欠片を愛おしそうに見つめ、かすかに微笑んだ。

「……悲しまないでください。あなたのその涙が、僕にとってはどんな春の花よりも、美しく見えますから」


 ふと、部屋の隅に置かれた、柊が唯一持ち込んでいるという古いラジオから、天気予報が流れてきた。


『明日も引き続き高気圧に覆われ、関東地方は各地で四月下旬並みの陽気になるでしょう。都心の最高気温は、二十度を超える見込みです。……』


 二十度。

 それは、ユキヒトが耐えられる限界を、大きく超えた数字だった。


 柊の首元のマフラーが、微かに震えた。窓を塞ぐ銀色のシートの向こう側で、春という名の死神が、鎌を振り上げて笑っている。


 美咲は、感覚のなくなった指先をさらに強く握りしめた。

 立春を過ぎてもなお消えない、心の奥底に降り積もった余寒。その冷たさだけが、今、二人を繋ぐ唯一の絆だった。

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