第3話 薄氷

 室温十六度。

 天井の隅で唸りを上げ続けるエアコンの送風音が、銀色の断熱材に囲まれた密室に、低く、重く響き渡っている。

 外の世界では、街路樹の蕾が陽光に急かされて弾け、人々が春の訪れを全身で謳歌し始めているというのに。この部屋だけは、時間が透明な氷の中に閉じ込められたまま、深い冬の底に沈んでいた。


「……これなら、大丈夫でしょうか。白川さん、熱いものは『毒』になるっておっしゃっていたから」


 厚手のコートを着込み、吐く息が白くなるのを見つめながら、美咲はビニール袋から小さなバニラアイスのカップを取り出した。パイプベッドの端に腰を下ろしていた柊は、差し出されたそれを、まるで異国の珍しい果実でも見るような目で見つめたあと、細長く血の気のない指先で受け取った。


「ありがとうございます。……僕たちユキヒトは、人間の食事から栄養を摂る必要はありません。特に熱を帯びた食べ物は、内側から僕たちの形を壊してしまう。……でも、これなら……誰かとこうして、同じものを食べるなんて。考えたこともありませんでした」


 木製のスプーンが、カップの底をかすめる小さな音だけが、静寂に満ちた部屋に響く。

 美咲は、冷気でかじかむ指先を温めるようにアイスを握り、ゆっくりと口に運んだ。凍えるような寒さの中にいるはずなのに、柊の隣に座っていると、不思議と心が凪いでいくのを感じる。それは、喧騒に満ちた外の春よりも、ずっと深い安らぎだった。


「さっきの……この街に溜まった『澱(おり)』を吸い取っているっていうお話。白川さんが一人で、全部やっているんですか?」


 先ほど彼が語った、この街の「冬の掃除屋」としての役割。その言葉が、美咲の胸に刺さったまま抜けない。柊はスプーンを止め、断熱材で覆われた窓の向こう……遠い記憶の景色を見るような目で言った。


「冬は、人にとって耐える季節です。寒さに凍えながら、心の中に溜め込んでしまうものがある。……例えば、誰にも言えなかった後悔や、癒えないまま蓋をした古傷、あるいは、行き場を失くしたまま凍りついた孤独。そういった冷たい感情が、人々の心からこぼれ落ちて街に溢れすぎると、世界は重たくなって、次の季節へ進めなくなってしまう。だから、僕たちがそれを吸い込みます。このマフラーの下にある、僕の『核』へと」


 柊は、自分の首元を厳重に守る、あの白いマフラーの端に、慈しむように触れた。


「僕の体の中には、この街の至る所で拾い集めた、誰かの冬が詰まっているんです。だから、僕は人より冷たくて、そして、少しだけ重い。……本当は、それはとても苦くて、救いのない味のはずなんです。けれど」


 柊は再びスプーンを動かし、少しだけ溶け始めたバニラアイスを一口、丁寧に口に含んだ。


「こうして、あなたの隣で甘いものを食べていると、自分が何を預かっているのか、忘れてしまいそうになる。……冷たいはずのアイスが、なぜか、温かく感じられるんです」


 美咲は、胸の奥がちりと焼けるような感覚を覚えた。

 思えば、彼が隣に越してきた十二月のあの日。自分は連日の残業と人間関係の摩擦で、心身ともにボロボロだった。毎日が灰色で、春のことなど考える余裕さえなかった。けれど、いつの間にか心が軽くなっていたのは、隣に住む彼が、知らず知らずのうちに自分の「冬」を、あの痛みを、肩代わりしてくれていたからなのだ。


「……白川さんが、私の分まで持ってくれてたんですね。私の知らないうちに」

「僕は、掃除をしただけです。……でも、初めて思いました。預かったものが、こんなに愛おしく感じられることもあるんだ、と」


 夜が深まり、外の気温が十度近くまで下がったのを確認してから、二人は短時間の散歩に出ることにした。人通りの消えた深夜の裏路地。月明かりが、柊の透き通るような肌を青白く照らし出し、彼の輪郭をこの世のものとは思えないほど美しく、そして危うく際立たせている。


 不意に、湿り気を帯びた夜風に乗って、甘く重厚な香りが漂ってきた。

「あ……沈丁花(じんちょうげ)」

 美咲が立ち止まると、民家の生垣の陰で、小さな十字型の花々が身を寄せ合うようにして咲いていた。

 春の夜を象徴する、濃厚な香り。けれど、今の二人にとっては、それは逃れられない別れを告げる警笛のように聞こえた。


 柊もその花の前に立ち、黙って見つめている。


「人間は、花が咲くのをあんなに喜びます。……僕は、それを一度も綺麗だと思ったことがありませんでした。ただ、僕を消し去るための残酷な合図だとばかり思っていたから。……でも、今は少しだけ分かります。この香りは、何かが終わって、何かが始まる匂いなんですね」


 そう語る彼の横顔は、街灯の光を反射して、今にも夜の闇に溶けてしまいそうなほど頼りなかった。

 美咲は思わず、その透き通るような手に触れたいと思った。凍りついていてもいい。指先だけでも重ねて、彼が確かにここに存在していることを、その冷たさを、自分の体温で繋ぎ止めておきたかった。


 けれど、美咲が手を伸ばそうとした瞬間、柊は無意識に一歩、後退りした。


「……だめです、桜井さん。近づきすぎてはいけない」

「……白川さん」

「今の僕は、いつ形を失ってもおかしくない。……あなたの温かさにこれ以上触れたら、僕は、僕でいられなくなってしまう。……溶けてしまうんです。あなたのせいに、したくない」


 彼の声は、微かな風にもかき消されそうなほど震えていた。

 二人の間には、一歩分の距離が空いている。けれど、その距離は、目に見えないほど繊細で壊れやすい、透明な障壁のようだった。

 少しでも踏み込めば、すべてが音を立てて崩れ去ってしまう。そんな予感が、二人の間に冷たく、けれど確かに横たわっている。


 アパートに戻る道すがら、美咲は彼の手元を盗み見た。

 街灯に照らされた彼の指先が、わずかに揺らぎ、白く細かな粒子となって夜気に混じっていくのを、美咲は見逃さなかった。まるで、光に当てられた雪が、静かに昇華していくように。


 自室に戻り、暗い部屋の中で一人、テレビをつける。画面の中ではキャスターが笑顔で告げていた。

『来週には都内でも桜が開花し、気温はさらに上昇する見込みです。記録的な暖春になるでしょう。皆さんも、春の装いでお出かけください』


 美咲は赤く腫れた自分の指先を、痛むほどに強く握りしめた。

 足元の平穏が、パキパキと音を立てて割れていく幻聴が聞こえる。

 春という大きな、抗いようのない波が、すぐそこまで、彼を攫いに来ていた。

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