第2話 氷点

 三月半ば。東京に、唐突な「春」がやってきた。

 昨日までの凛とした空気はどこかへ消え、南から流れ込む風が、湿り気を帯びた熱を街に振りまいている。午前中のニュース番組では、気象予報士が軽やかな声で「今日は絶好のお出かけ日和です。最高気温は十七度。四月中旬並みの暖かさになるでしょう」と告げていた。


 オフィスビルの窓の外では、街を歩く人々が楽しげにコートを脱ぎ、手に持っている。

 けれど、事務作業に追われる桜井美咲の胸のうちは、どこか落ち着かなかった。


(十七度、か……)


 普通なら「やっと温かくなった」と喜ぶはずの数字。なのに、美咲の脳裏には、数日前にベランダで見た隣人・白川柊の姿が焼き付いて離れない。

 雪の日ですらシャツ一枚でいた、異常な佇まい。彼が触れた瞬間に鉄柵を覆った、真っ白な霜。

 そして、彼が寂しげに呟いた言葉。

『これ以上、温かくなってほしくないくらいには』


 あの時の彼の吐息は、氷点下のそれだった。

 これほど急激に気温が上がって、彼は大丈夫なのだろうか。

 あんなに冷たかった彼が、この生温かい風にさらされたら、どうなってしまうのか。

 そんな、正体の分からない、けれど無視できない不安が、報告書を打つ美咲の指先をわずかに鈍らせていた。


 残業を早々に切り上げ、アパートへと急ぐ。

 最寄り駅からアパートまでの道すがら、夜風は驚くほど生温かった。住宅街の庭先からは沈丁花の香りが強く漂い、春の訪れをこれでもかと強調してくる。その香りが、今の美咲にはなぜか、柊を追い詰める香煙のように感じられて仕方がなかった。


 アパート『コーポ・静風』の錆びた階段を上り、三階の廊下に差し掛かった、その時。

 美咲の肌が、強烈な「違和感」を捉えた。

 生温かい春の夜気が、そこだけナイフで切り取られたように遮断されている。

 三〇二号室のドアの前。そこに、人影があった。


「白川さん……!?」


 柊は、廊下の壁に背を預けたまま、ずるずると膝を折ってうずくまっていた。

 駆け寄ろうとした美咲は、彼の周囲に漂う空気に触れた瞬間、思わず息を呑んだ。

 寒い、なんてレベルではない。彼の周りだけが、マイナス数十度の極寒地と化しているのだ。

 アスファルトの熱を吸い取った夜風が、彼の体に触れた瞬間に凍りつき、白い霧となって足元へ流れ落ちていた。


「白川さん、しっかりして! 顔色が……」


 肩を支えようと手を伸ばしたが、あまりの冷気に指先が震え、触れることすら躊躇われた。

 柊はゆっくりと顔を上げたが、その肌は透き通るほどに白く、血管の青さすら見えない。まるで精巧に作られた氷像のようだ。

 そして、彼の首元を厳重に覆っているあの白いマフラー。その隙間から、まるでひび割れた器から漏れ出す光のように、さらさらと細かな雪の結晶のようなものが溢れ出していた。


「……あ、あけて……ください」


 柊が、震える指先でポケットから鍵を取り出す。その指はすでに感覚を失っているのか、鍵を地面に落としてしまった。

 美咲はそれをひったくるようにして拾い上げ、鍵穴に差し込む。金属の鍵すら、指が張り付くほど冷たくなっていた。

 ドアを押し開け、彼を抱え込むようにして室内へと運び込む。


 一歩足を踏み入れた瞬間、美咲は衝撃で足が止まった。


「……なに、ここ……」


 そこは、人が生活を営むための場所ではなかった。

 六畳ほどのワンルームには、テレビも、本棚も、ソファもない。ただ一点、部屋の隅に置かれた古びたパイプベッドだけが、辛うじてここが寝室であることを示している。

 暖房器具などは影も形もなく、天井のエアコンからは、設定温度の限界である『十六度・パワフル冷房』が、唸りを上げて室内に冷気をぶちまけていた。


 何より異様なのは、窓だ。

 ベランダに面した大きな窓も、小さな小窓も、すべて銀色の厚い断熱シートで隙間なく覆われ、ガムテープで厳重に目張りされている。

 外の光も、春の熱も、一切を拒絶する閉ざされた空間。

 ここはアパートの一室ではない。人々の「春」という狂乱から逃れるために作られた、孤独な『氷室』だった。


 美咲は柊を床に座らせ、自分も冷気に歯の根を鳴らしながら、彼の隣に腰を下ろした。

 柊はしばらくの間、エアコンから吹き出す冷風を全身に浴びるようにして、深く、静かに目を閉じていた。


 数分が経ち、彼の首元のマフラーから溢れていた白い粒子が収まり、荒い呼吸がようやく落ち着きを取り戻していく。


「……すみません。お見苦しいところを。……助かりました」


 柊が、掠れた声で言った。

 ようやく開かれたその瞳は、まだ深い冬の夜の色を湛えている。


「白川さん、あなた……本当は何者なんですか。こんな部屋で、こんなに自分を冷やして。……あの霜も、この異常な冷たさも、とても人間とは思えないです」


 柊は、自分の首元に巻かれたマフラーを、慈しむように、あるいは呪縛を確かめるようにそっと撫でた。


「……僕たちは、『ユキヒト』と呼ばれています」

「ユキヒト……?」

「正確には、冬という季節が人間に残していく『澱(おり)』を掃除するための存在です。冬の間、人は多くのものを溜め込みます。孤独、後悔、誰にも言えなかった悲しみ。そういった冷たい感情が街に溢れると、春が来られなくなる。だから、僕たちがそれを体内に吸い込み、浄化して、北の果てへ持ち帰るんです」


 柊は、断熱材で覆われた窓の方を見つめた。

「だから、僕の体の中には常に、人々の冷たい記憶が詰まっている。それを閉じ込めておくために、僕自身が氷の器でいなきゃいけないんです。……でも」


 彼はそこで言葉を切り、自分の指先を見つめた。

 先ほどまで凍りつくようだった指先が、室内の冷房によって少しだけ安定を取り戻している。


「十五度。それが、僕たちがこの姿を維持できる限界の温度です。それを超える日が続くと、器が溶け出してしまう。……中身の冷たさと一緒に、僕という形も、霧になって消えてしまう」


 美咲は、言葉を失った。

 脳裏に、昼間のニュースで聞いたあの晴れやかな声が蘇る。

『今日の最高気温は十七度』


 十五度を超えたら、彼は消えてしまう。

 自分たちが「ようやく温かくなってきた」と喜んでいた春の陽光が、彼にとっては存在そのものを削り取る、恐ろしい毒のようなものだった。

 今日の十七度という気温は、彼にとっては死の宣告と同じだったのだ。


「人間にこの姿を見られた以上、本当は……僕は今すぐここで、霧になって消えるべきなんです。ユキヒトが人間に情を移せば、それだけで体温が上がり、寿命を縮めることになるから」


 柊は、初めて美咲の目をまっすぐに見つめた。

 その瞳に、大理石のような無機質さではない、確かな「震え」が宿る。


「……でも、もう少しだけ、ここにいたいと思ってしまった。……桜井さん、あなたが、僕の隣に住んでいたから」


 エアコンの送風音が、静まり返った氷室に虚しく響く。

 美咲は、自分のコートのポケットの中で、あの日以来赤く腫れたままの指先をぎゅっと握りしめた。


 外では春が産声を上げ、世界は残酷なほど鮮やかに色づこうとしている。

 それなのに、美咲は心から願ってしまった。

 どうか、この氷室の冷気が、いつまでも彼を守り続けてくれますように。

 世界から春の足音が消え、永遠の冬がここにとどまってくれますように、と。


「……秘密にします。白川さんのこと、私が守るから。だから、消えるなんて言わないで」


 それが、どれほど自然の摂理に反した、身勝手で残酷な約束なのかも知らずに。

 美咲の声は、白く凍える部屋の中で、祈りのように静かに溶けていった。

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