三月のユキヒトは、春の風に溶ける

紫月レイ

第1話 冬隣

駅ビルの巨大なショーウィンドウは、いつの間にか暴力的なまでのパステルピンクに染め上げられていた。

「……もう、春か」

 改札を抜けた桜井美咲(さくらい みさき)は、誰に聞かせるでもなく独り言をこぼした。

 天井から吊るされた桜のフェイクグリーン。期間限定のストロベリーラテを手にして微笑むモデルのポスター。それらは、連日の残業で思考が濁った美咲の目には、どこか遠い異世界の出来事のように映る。


 三月一日。暦の上では今日から春だということになっているが、夜の空気は依然として鋭い。

 美咲にとって、この季節は決して「華やかな始まり」ではなかった。年度末に向けた予算の帳尻合わせ、膨大な報告書の作成、異動に向けた引き継ぎ。ただでさえ余裕のない毎日が、さらに慌ただしく加速していく。彼女にとっての春は、心身を削り取る「期限」の代名詞に過ぎなかった。


 冷え切ったアスファルトを、重いパンプスで叩くようにして歩く。

 駅から徒歩十分。築十五年のアパート『コーポ・静風』への帰り道は、街灯の数がまばらで、どこか街の喧騒から取り残されたような静けさがあった。


 ふと、隣室の住人のことを思い出す。

 三〇二号室、白川柊(しらかわ しゅう)。

  彼がこのアパートに越してきたのは、今から三ヶ月前。十二月の初め、東京ではありえないほど早い初雪が降った日のことだった。


 あの日は、本当におかしな日だった。

 まだ十二月に入ったばかりだというのに、昼過ぎから見たこともないほど大粒の雪がしんしんと街を覆い尽くし、人々が肩をすくめて家路を急いでいた。


 そんな極寒の夕暮れ、控えめなインターホンの音に応対した際、ドアの向こうに立っていた彼の姿を、美咲は今でも鮮明に覚えている。

 ドアを開けた瞬間、廊下の冷気とは質の違う、もっと鋭く澄んだ「氷の気配」が部屋の中に流れ込んできた。


 彼は、信じられないほど不自然な格好をしていた。

 雪が吹き荒れる外から来たはずなのに、コートも、厚手のセーターも着ていない。糊のきいた清潔そうな白いシャツを一枚、素肌に羽織っているだけなのだ。

 それなのに――その首元にだけは、まるで重大な傷跡でも隠しているかのように、厚手の真っ白なマフラーを顎が隠れるほど厳重に、隙間なく巻きつけていた。


 寒さを凌ぐための装いではない。

 体温という概念を拒絶しているような、異様な佇まい。


「……三〇二号室に越してきた、白川です。これ、つまらないものですが」


 彼が差し出してきたのは、のし紙のついた小さな箱だった。

 それを受け取ろうとした美咲の指先が、彼の手に、ほんのわずかに掠める。


 その瞬間、美咲の背筋に電流のような衝撃が走った。

 伝わってきたのは「冷たさ」というより、皮膚を刺すような「凍痛」。

 まるで、冷凍庫から出したばかりの金属に触れてしまったかのような、剥き出しの氷の温度だった。


 驚いて彼の顔を見上げたが、白川は表情一つ変えず、ただ静かに会釈をして隣の部屋へと戻っていった。

 あとに残されたのは、氷のように冷え切った小さな箱と、指先に残った痺れるような違和感だけ。


 それからの三ヶ月。気温が上がろうと下がろうと、彼は一度として、その不自然なほど白いマフラーを外している姿を見せなかった。


「……あ、窓、閉め忘れてた」

 自室に入り、コートを脱ぎ捨てて暖房のスイッチを入れた美咲は、ベランダの窓が数センチ開いたままだったことに気づいた。

 換気のために開けておいたのを忘れていたのだ。冷え切った部屋を温めようと窓に近づいたとき――美咲の動きが止まった。


 カーテンの隙間から流れ込んできたのは、三月の夜風などではなかった。

 それは、肌を突き刺し、肺の奥まで凍てつかせるような、圧倒的な「冷気」だった。

 まるで、巨大な業務用冷凍庫の扉を開けてしまったかのような、理不尽なまでのマイナスの温度。


「な……に、これ」


 あまりの冷たさに肩を震わせながら、美咲は吸い寄せられるようにベランダへ出た。

 隣のベランダとの仕切りの向こう。そこに、彼がいた。


 白川柊は、十二月のあの日と同じ、薄手の白シャツ一枚という姿で手すりに両手を預けていた。

 見上げる夜空には雲ひとつない。街灯の光を反射して、彼の横顔は発光しているかのように透き通って見えた。そしてその首元には、やはりあの分厚いマフラーが、鎧のように巻き付けられている。


 驚いたのは、その周囲の光景だ。

 彼が掴んでいる鉄製の手すり。そこから、まるで生き物のように白い霜が這い回り、隣の美咲のベランダの柵にまで侵食してきているのだ。


「あの……白川、さん?」


 喉が張り付いて、うまく声が出なかった。

 柊はゆっくりと、時間をかけてこちらを振り向いた。

 その瞳は、深い海の底に沈んだ氷晶のように、静かで無機質な輝きを湛えている。

 彼の口元から漏れる吐息は、零下十度の極寒地のように真っ白で、濃かった。


「こんばんは。桜井さん。……また、お会いしましたね」


 挨拶を返そうとしたが、美咲は寒さで顎がガチガチと鳴るのを止められなかった。

「あの、そんな格好で……寒くないんですか? こっちは三月になったとはいえ、まだ夜は冷えますし……それに、その、霜が……」


 美咲が柵を指差すと、柊は自分の手元を眺めた。

 彼が手を離した瞬間、手すりに張り付いていた霜がパリパリと乾いた音を立てて砕け、夜の闇に散っていく。


「いえ。僕は、これでちょうどいいんです」

 柊は少しだけ伏せ目がちに、寂しげな響きを帯びて言った。

「これ以上、温かくなってほしくないくらいには。……世界が春を急ぐのは、僕にとっては少しだけ、残酷なんです」


 その言葉の意味を美咲が問い返そうとした、その時だ。

 一陣の鋭い突風がベランダを吹き抜けた。

 柊が柵の上に置いていた、黒い革製の手袋。その片方がふわりと宙を舞い、境界を越えて美咲の足元に落ちた。


「あ、拾います」


 美咲は屈み込み、その手袋を手に取った。

 その瞬間、彼女は「っ!」と思わずそれを手放しそうになった。


 冷たい。そんな言葉では到底足りない。

 それは布や革の感触を失い、芯まで凍りついた氷の塊そのものだった。

 触れた指先の熱が、吸い取られるように奪われていく。骨の奥まで響くような鋭い痛みが走り、瞬く間に指先の感覚が失われていった。


「桜井さん、すみません。それは、少し冷えすぎている」


 柊がベランダの仕切り越しに、身を乗り出すようにして手を伸ばした。

 美咲は痛みに顔をしかめながらも、それを返そうとして――彼の指先に、ほんの一瞬だけ触れてしまった。


 世界から音が消えた、と感じた。

 彼の指先は、手袋よりもさらに冷たく、けれど驚くほど滑らかだった。

 そしてその瞬間、美咲の鼻腔をくすぐったのは、雪が降る直前の空の匂い……あるいは、遠い北の果ての、誰も足を踏み入れたことのない原野の匂いだった。


「……ありがとうございます」


 手袋を受け取ると、彼は一度だけ深く頭を下げた。

 そのまま、逃げるように部屋の中へ消えていく。パタン、と静かに窓が閉まる音がした。


 あとには、ベランダに残された「冷気」の残滓と、刺すように痛む指先の痺れだけが残った。

 美咲は自分の手を見つめた。彼に触れた場所だけが、火傷をしたかのように赤く腫れ始めている。


 部屋に戻り、窓を閉めて鍵をかける。暖房を強めても、一度冷え切った体はなかなか温まらない。

 三月一日。

 街が浮き足立って春へと向かう中、隣の白川柊だけは、三ヶ月前の「ありえない雪」の静寂の中に、今も一人で取り残されているようだった。


 美咲は赤くなった指先を、自分の吐息で温めた。

 けれど、あの時感じた氷の匂いだけが、いつまでも部屋の中に淡く漂っているような気がしてならなかった。

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