第2話

「では、こうしましょう」


 と、水前すいぜんこのかが言った。議論が紛糾し尽くした学級会において、最適な結論を導き出す委員長然とした冷静な口調で。当時から見惚れるほどに綺麗だった長い黒髪を風にたなびかせて。


「あなたのこれからの人生を、私が買います。あなたの言い値で構いませんよ。いくら払えばいいですか?」

「………………」


 今から遡ることおよそ八年前。こうして俺は晴れてめでたく、このかの所有物となったのだった。



   ×   ×   ×



「バイトを始めようと思うんだ」


 よく晴れた平日。の昼休み。

 白風はくふう学院の校舎内に当然のように存在しているこのかお嬢様専用の私室にて、俺が意を決して宣言したところ、このかから差し出されたのは札束だった。


 札束。

 帯で百枚の一万円札が纏められているアレである。

 少なくとも一介の女子高生が友達にお菓子を分けてあげる感覚で気軽に差し出していいものじゃねえ。


「その必要はありません。お金が欲しいなら、いくらでも私が差し上げますよ」


 が、このかは一介の女子高生ではなかった。

 彼女にとってお金とは蛇口をひねれば出てくる水と同義だ。ほとんど無限に湧いてくるに等しい。それもそのはずで、このかは世界でも五指に入るほどの巨大な財閥グループのご令嬢だった。超をいくつつけて形容しても足りないくらいの金持ちである。ゆえに金銭感覚が庶民とは一線を画していた。

 というか、バグりまくっている。


 俺が言いたげに微妙な表情をしていると、何を勘違いしたのか、このかが座っていた海外製のデスクの引き出しからさらに札束を一つ取り出して追加してきた。


「それで足りないなら、まだ追加しますよ。欲しい金額を言ってください」


 この世にはびこる全ヒモ男子が血涙を流して羨むような宣言をされた。

 さすがは駄目人間製造機。

 が、あいにくと俺には響かない。


「俺はお金のためにバイトがしたいわけじゃねえんだよ。……いやもちろん金は欲しいが、そうやって何もせずに与えられるのは違う。ちゃんと労働をした対価としての金が欲しいんだよ」

「はて? つまり、ユズくんは低賃金でボロ雑巾ぞうきんのように他人から使役されたいということですか?」


 このかの中での労働のイメージが悪すぎだろ。

 ボロ雑巾て。


「どんな仕事でもさすがにそこまでにはならねえと思う……けど、たとえボロ雑巾になったとしても、俺は自分の力でどこまでやれるかを試してみたいんだ! そのためなら、むしろ自分から積極的にボロ雑巾になってやる覚悟だぜ!」


 やる気にあふれたベンチャー企業の若手社長のごとく、俺は堂々と胸を張る――と、そんな俺の覚悟にさすがのこのかも心打たれるものがあったのか、それとも単なる気まぐれか、やれやれとばかりにため息を一つ吐くと、言った。


「私にはユズくんの言っていることがさっぱり理解できませんが……束縛するだけが彼女の務めでもありませんし、いいでしょう。今回だけは特別にユズくんのワガママを許してあげます」

「まじで!? やったぜっ!」


 予想外にお嬢様の許可がすんなり出て、思わずガッツポーズをする。どうせまた借金の話を持ち出されて終わると考えていただけに喜びもひとしおだった。


 千里の道も一歩から。

 ここからこのかの支配から逃れるロードが始まるのだ。

 そのときの俺は純粋にも曇りのない眼でそう信じていた。



   ×   ×   ×



 で、種明かしのターン。

 それから急いで履歴書を用意して、面接に臨み、無事にコンビニでのバイトが決まった俺を待ち受けていたのはある一つのニュースだった。

 曰く、そのコンビニチェーンを傘下に持つ親会社を、水前グループが買収したとのこと。 

  

 ……なんとなく嫌な予感がした。

 そして勤務初日。初めてのバイトで緊張する俺を出迎えてくれたのは、面接の時にも会った見た目五十代くらいのおじさん店長だった。

 ただし、面接のときとは態度がずいぶんと違う。


「へへ、お待ちしておりましたよ。八宮はちみや由寿ゆずさん。まずはバックヤードにご案内させていただきますね」


 悪の組織の下っ端のような媚びた笑みを浮かべつつ、揉み手をしてあからさまに僕の顔色をうかがっていた。 


「えっと……どうしたんですか? もしかして俺の扱いについて、誰かから何か言われました?」

「ええ。そりゃあもう。このかお嬢様から、由寿さんのことは生まれたての子猫よりも丁重に扱えと厳命されておりますので。……あ、そこ、足下に段差があるので気をつけてくださいね」


 ぐは。やっぱりか。

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