俺たちの敵は誰なんだ
ほしわた
俺たちの敵は誰なんだ
第1話 森にて
夜の森は、思ったより音が多い。
焚き火の薪がはぜる音に混じって、どこかで獣が枝を踏み折る。湿った土と苔の匂いが、息を吸うたびに肺の奥まで入り込んできた。
バルドは革袋を肩にかけ、水場へ向かった。
「すぐ戻る。火、消すなよ」
そう言って、大きな背中が闇に溶ける。
残されたのは、レオンとエルナだけだった。
レオンは焚き火の向こうを見つめたまま、剣を膝に置いている。刃は布に包まれていたが、柄だけはいつでも掴める位置にあった。子どものころから染みついた癖だ。
エルナは荷袋から一冊の本を取り出し、膝に広げる。ページの角は擦り切れ、何度も読み返された跡があった。
「……ねえ、レオン」
「なんだ」
短い返事だった。視線は焚き火から動かない。
「やっぱり、おかしいと思わない?」
エルナは本を閉じ、指で背表紙を押さえた。「文献も、ギルドの報告も、ここ数年……魔王軍の直接被害って、ほとんど記録がないの」
レオンの眉が、わずかに動いた。
「魔王は悪だ。それだけだろ」
「“悪”であることと、“脅威の出方”は別よ」
エルナは言葉を選ぶように、一拍置いた。「代わりに増えてるのは、海賊化した魚人族とか、ウルフ盗賊団の被害。街道も村も、そっちのほうが――」
「だから何だ」
レオンの声は低かったが、荒れてはいなかった。
エルナは眼鏡を押し上げる。「命令と現実が噛み合ってない、って言ってるの。私は……魔王軍の脅威を、まだ実感できない」
焚き火の火が、ぱちりと音を立てた。
「実感する前に、討つ。それが俺たちの役目だ」
「でも――」
「エルナ」
レオンは初めて彼女を見た。
真っすぐで、迷いのない目だった。
「俺は、そう教えられてきた。剣を振るう理由を疑う暇なんてなかった」
言い切る声だった。
エルナはそれ以上、続けなかった。
そのとき、森の奥で水音が弾ける。
ほどなくして、バルドが戻ってきた。革袋を下ろし、どっかと腰を下ろす。
「冷てえぞ。……ん? なんだ、その空気」
笑いかけたが、二人の表情を見て口をつぐむ。
レオンは剣を布で包み直し、立ち上がった。
「明日、隣の街に着く。もう一人を探す」
それだけ言って、焚き火から一歩下がる。
エルナも、バルドも、何も返さなかった。
夜はまだ、深い。
第2話 境目
朝の森は、夜よりも正直だった。
霧が低く垂れ、草の先に水が溜まっている。足を踏み出すたび、靴底が濡れた。
三人は並んで歩いていた。
先頭を行くのはレオン。歩幅は一定で、振り返らない。
その少し後ろで、エルナが足を緩めた。
一度、バルドの方を見る。彼は何も言わず、肩をすくめただけだった。
エルナは小さく息を吸い、前を向く。
「ねえ、レオン」
レオンは歩みを止めない。
「昨日の話だけど……続き、いい?」
レオンは立ち止まらなかった。
「続ける必要はない」
エルナが一歩、距離を詰める。
「感情的にならずに、聞いてほしいの。命令と、記録と、現実。その三つが噛み合ってない」
「命令は命令だ」
レオンの声は平坦だった。「王が間違えるはずがない」
「間違いじゃなくて、見ていないだけかもしれない」
エルナは言った。「ギルドの被害報告、直近の街道。魔王軍より、野良化した魚人族やウルフ盗賊のほうが――」
「それは別の問題だ」
レオンが振り返る。
剣の柄に、親指がかかっていた。
「魔王は悪だ。討つ理由はそれで足りる」
バルドが割って入る。
「待て。俺も聞いたことがない。魔王軍に襲われた、って話はな」
レオンの足が止まった。
「お前まで、何を言ってる」
「事実だ」
バルドは肩をすくめる。「だからって、魔王が善人だとは言ってねえ。ただ――」
「二人で、俺を疑っているのか」
声が、低くなる。
エルナは息を整えた。
「違う。疑っているのは、“前提”よ」
「前提?」
「そう。私たちが信じてきたもの」
風が抜け、霧が揺れた。
遠くに、街道が見え始める。
バルドが一歩前に出る。
「落ち着け。気持ちは分かる。けどな、広い視野で見なきゃ、見誤る」
「見誤るのは、剣を抜かないことだ」
レオンの言葉は短かった。
「――もうすぐ隣の街だ」
エルナが言った。「情報を集めましょう。確かめればいい」
レオンは答えなかった。
ただ、歩き出す。
街の門が見える。
石壁の影が、三人を分けた。
誰も、正しいとは言わなかった。
誰も、引き返そうともしなかった。
境目を越えたのは、足だけだった。
第3話 町はずれ
隣村は、思っていたより静かだった。
石畳は乾いていて、人の足音が散発的に響く。商いの呼び声もあるにはあるが、切迫した匂いはない。
門をくぐったところで、エルナが立ち止まった。
「手分けしましょう。魔術に通じていそうな人を探す」
バルドが頷く。
「俺は酒場だな。情報はだいたい、ああいう所に落ちてる」
レオンは答えず、町の端を見た。
石壁が低くなり、家並みが疎らになる。木の柵の向こうに、小さな建物が見えた。
「俺は、あっちへ行く」
エルナが一瞬、言いかけてやめた。
「……分かった。日が傾く前に、戻って」
レオンは歩き出す。
剣の重みが、いつもよりはっきりと伝わってきた。
*
孤児院は、町はずれにあった。
白い壁は手入れが行き届いているが、新しいわけではない。扉の前に、子どもの靴が並んでいる。
レオンはノックをした。
ほどなくして、シスター・エヴァが顔を出す。
「ご用件は?」
事情を簡潔に話す。
魔王軍の動き、魔術師の噂、何か心当たりはないか。
エヴァは首を振った。
「この辺りで、そういう話は聞いていません。……少なくとも、子どもたちが怯えるようなことは」
後ろで、小さな足音がした。
ミーナが、扉の影からこちらを見ている。目が合うと、慌てて引っ込んだ。
「分かりました」
レオンは一礼した。「ご協力、感謝します」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
手掛かりは、何もなかった。
*
町を離れ、少し歩く。
家並みが途切れ、土の道に変わる。風が強くなり、草が擦れる音が増えた。
――無駄足だったか。
そう思った瞬間、空気が変わる。
背後で、低い詠唱。
次の瞬間、熱が走った。
レオンは反射的に跳ぶ。
地面に、焦げた跡。遅れて、甘い焦臭が鼻を刺す。
剣を抜いた。
視界の端で、光が揺れる。
人影が、立っていた。
魔力の圧が、肌を叩く。
森の奥から、風が逆流する。
レオンは剣を構え、息を整えた。
距離は、まだある。
――来る。
その確信だけが、はっきりしていた。
第4話 ひび
最初に感じたのは、音だった。
空気が、鳴った。弦を強く弾いたような高い音が、耳の奥に突き刺さる。
レオンは剣を振る。
金属が風を切り、遅れて衝撃が腕に返ってきた。
光が弾ける。
白い閃光が視界を塗りつぶし、次の瞬間、熱が頬を撫でた。焼けた草の匂いが、鼻腔を満たす。
「……っ」
足を引く。地面が柔らかい。踏みしめた瞬間、湿った土が跳ね、靴が沈んだ。
距離を取る。
相手は動かない。
人影は、少し離れた場所に立っていた。
長い髪が風に揺れ、淡い光が周囲を縁取っている。
魔力だ。
濃い。息を吸うだけで、肺が圧される。
レオンは剣を構え直す。
肩を落とし、重心を前へ。子どものころから叩き込まれた型。
次の瞬間、音が消えた。
無音。
世界が、一拍止まる。
――来る。
レオンは踏み込む。
同時に、地面が爆ぜた。衝撃が足元から突き上げ、身体が浮く。視界が回り、土と草が舞う。
着地。
膝が軋む。歯を食いしばり、体勢を立て直す。
再び、光。
今度は青白い。冷たい光が、空気を凍らせる。
剣で受ける。
金属が悲鳴を上げ、腕が痺れる。指先が熱を失い、感覚が薄れる。
――強い。
だが、殺気がない。
それに気づいた瞬間、迷いが生まれた。
「……やめろ」
声が出た。
意図せず。
その刹那、足音。
「やめてぇ――!」
甲高い声が、戦場を裂いた。
小さな影が、飛び込んでくる。
ミーナだった。
泣きながら、必死に手を振っている。
「やめて! その人、悪い人じゃない!」
遅れて、別の足音。
「ミーナ!」
シスター・エヴァが、追いかけてくる。
レオンの身体が、先に動いた。
剣を引き、前に出る。
子どもを庇う位置。考える前の反射だった。
その瞬間、空気が震えた。
魔力が、一点に集まる。
重い。圧が、胸を押し潰す。
人影――ルナリアの手が、静かに上がる。
表情は、読めない。
世界が、光に包まれる。
レオンは歯を食いしばり、身構えた。
剣を握る手に、力を込める。
――間に合わない。
そう思った瞬間。
光は、逸れた。
轟音。
衝撃。
遠くの木立が、なぎ倒される。
土煙が舞い、視界が白く染まる。
静寂。
レオンは、まだ立っていた。
ミーナも、エヴァも、無傷だった。
剣を下ろし、前を見る。
ルナリアは、その場に立ち尽くしていた。
震える指を、胸の前で握り締めて。
泣いてはいない。
だが、顔は蒼白だった。
――なぜだ。
疑問が、胸に残る。
なぜ、守った。
答えは、まだない。
第5話 残るもの
土煙が、ようやく落ち着いた。
焦げた匂いだけが、遅れて鼻に残る。
「レオン!」
駆ける足音。
振り向く前に、重い影が視界に入った。
バルドだった。盾を構えたまま、周囲を一瞥し、次にレオンを見る。
「無事か」
エルナも追いつき、息を整えながら状況を見渡した。
倒れた木。焦げた地面。泣き止まないミーナ。
「……戦闘があったのね」
レオンは答えなかった。
剣は下ろしている。だが、鞘に戻してはいない。
「この人……」
ミーナが、ルナリアの袖を掴む。「この人、悪い人じゃないの」
シスター・エヴァが膝をつき、ミーナを抱き寄せた。
「落ち着いて。……レオンさん」
エヴァの視線が、ルナリアへ向かう。
ためらいは、なかった。
「この方は、ここしばらく……孤児院を手伝ってくれています。森で食べられるものを集めたり、壊れた柵を直したり」
レオンの喉が、ひくりと鳴った。
「子どもたちが森に近づかないよう、いつも見張ってくれていたの」
エヴァは続ける。「魔法を使うのも、危険を避けるときだけでした」
「……演技かもしれない」
言葉が、勝手に口から出た。
自分でも驚くほど、硬い声だった。
エルナが一瞬、目を伏せる。
「可能性は、否定できないわ」
レオンの胸に、熱が溜まる。
それは怒りだった。
「なら、聞く」
一歩、前に出る。「孤児院を守ったのは、何のためだ」
ルナリアは答えない。
視線を落とし、唇を噛む。
バルドが、低く言った。
「少なくとも、さっきの魔法……本気なら、ここは更地だ」
レオンは睨み返した。
「だから何だ」
「事実だ」
バルドは動じない。「守った。それは消えねえ」
怒りが、形を持つ。
胸の奥で、剣のように硬くなる。
――王の命令。
――魔王は悪。
――討つべき敵。
積み上げてきたものが、音を立てずに崩れていく。
「……分からない」
レオンは、絞り出すように言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
エルナが一歩、近づく。
「分からないなら、確かめるしかない」
ルナリアが、ようやく顔を上げた。
何か言おうとして、やめる。
沈黙が落ちる。
レオンは、剣を見た。
握り慣れた柄。頼り続けてきた答え。
それでも、鞘に戻した。
「……四人で行く」
声は静かだった。
怒りは、消えていない。
ただ、抑え込んだだけだ。
森の奥で、風が鳴る。
次に割れるものが、何か分からないまま。
第6話 鐘の向こう
最初に聞こえたのは、鐘の音だった。
低く、重い。空気を押し分けるように、村の外れまで届く。
レオンは顔を上げた。
胸の奥に、嫌な感覚が広がる。
「……警鐘?」
遠くで、誰かの叫び声が重なった。
――魔王軍だ!
――奇襲だ、逃げろ!
言葉は風に千切れながらも、はっきりと意味を残す。
ルナリアの肩が、びくりと跳ねた。
「そ、そんな……」
エルナが即座に判断する。
「見に行くしかないわ。噂だけじゃ、分からない」
バルドは盾を背負い直した。
「走るぞ。遅れたら、守れるもんも守れなくなる」
四人は駆けた。
土の道。草を踏み、柵を越え、視界が開ける。
そこに――旗が見えた。
黒地に赤。
誰もが知る、魔王軍の紋章。
村の外れで、数体のウルフ族が暴れている。
家屋に火をつけ、叫び声を上げながら剣を振るう。
「……魔王軍?」
レオンの言葉は、確認だった。
ルナリアは、首を振る。
蒼白な顔で、はっきりと言った。
「違います。あれは……魔王軍じゃない」
「旗は?」
エルナが問い返す。
「盗んだんです」
声が震える。「兄が……同じやり口で、命を落としました」
一瞬、音が遠のく。
――兄を殺した。
――勇者だと、思われたから。
バルドが前に出る。
「話は後だ。今は、止める」
エルナが頷く。
「四人で。力を合わせて」
レオンは、旗を見た。
それから、暴れるウルフ族。
怯える村人。
剣を、強く握る。
「……分かった」
声は低く、静かだった。
怒りは、まだ胸にある。
だが、足は前に出た。
四人は動いた。
魔法と盾、剣と判断。
連携は拙いが、目的は一つ。
やがて、ウルフ族は退く。
旗が地面に落ち、土に汚れる。
静寂。
荒い息の中で、レオンは呟いた。
「わかった……」
誰に向けた言葉でもない。
「わかったけど……」
剣を下ろす。
それでも、手は震えていた。
「――俺たちの敵は、誰なんだ」
答えは、ない。
ただ、
鐘の余韻だけが、遠くで揺れていた。
俺たちの敵は誰なんだ ほしわた @hoshiwata_novel
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