第6話:大きな言葉は、もういらない
第6話:大きな言葉は、もういらない
夜は、静かだった。
辺境の城に、深い闇が落ちている。
外では風が森を撫で、遠くで梟が一声鳴いた。
暖炉の火は小さく、赤い。
音を立てずに、ただ燃えている。
ギルバートとリリアは、同じ部屋にいた。
向かい合っているわけでもない。
並んでいるわけでもない。
それぞれが、それぞれの椅子に腰を下ろし、
同じ空気を共有している。
何も話さなくても、時間は進む。
ギルバートは、ゆっくりと息を吸った。
――すう。
胸が、ちゃんと膨らむ。
――はあ。
吐いた空気が、喉につかえない。
(……聞こえる)
自分の呼吸の音が。
それは、彼にとって奇跡だった。
これまで、息はいつも敵だった。
浅く、速く、暴れる。
音は、内側から襲ってくるものだった。
だが今は違う。
呼吸が、そこにある。
確かに、ある。
「……」
ギルバートは、言葉を探した。
大きな言葉はいらない。
重たい言葉も、いらない。
伝えたいのは、もっと小さいことだ。
「……君の隣にいると」
声は低く、揺れなかった。
リリアは、顔を上げない。
ただ、聞いている。
「……自分の息の音が、聞こえる」
それだけだった。
沈黙が、落ちる。
だが、逃げ場のある沈黙。
リリアの胸の奥で、何かがゆっくり広がった。
熱ではない。
高鳴りでもない。
温度が、均されていく。
冷たかった場所に、ぬくもりが届く。
彼女は、頷いた。
大きくもなく、
小さすぎもしない。
「……はい」
それだけで、十分だった。
ギルバートの肩が、わずかに落ちる。
張り詰めていた何かが、解ける音がした。
「……愛している、とは」
彼は、続けようとして、首を振った。
「……いや。違うな」
リリアは、微かに首を傾げる。
「……言わなくていいです」
彼女の声は、柔らかかった。
「もう、伝わっています」
ギルバートは、目を閉じた。
拒絶されない。
期待されない。
ただ、受け取られる。
それが、どれほど救いになるか。
彼は、初めて知った。
「……私は」
リリアが、静かに言った。
「……これまで、胸が高鳴ることを、愛だと思っていました」
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
「でも……それは、苦しさと、よく似ていました」
ギルバートは、何も言わない。
彼女の言葉が、続く。
「今は……違います」
リリアは、胸に手を当てた。
鼓動は、穏やかだ。
「静かで……あたたかくて……」
一拍、間。
「……生きている、という感じがします」
それが、彼女の告白だった。
愛とは、高鳴りではない。
奪うことでも、証明でもない。
安定だ。
明日も、同じ速度で呼吸できること。
ギルバートは、椅子から立ち上がった。
近づきすぎない距離で、彼女の前に立つ。
「……触れても?」
確認する声。
リリアは、頷く。
彼の指先が、彼女の手に触れる。
握らない。
絡めない。
温度だけが、伝わる。
それで、十分だった。
彼女の神経が、拒否しない。
彼の神経も、跳ねない。
二人の呼吸が、自然に揃う。
――すう。
――はあ。
同じリズム。
それが、何よりの証だった。
その夜、二人は何も誓わなかった。
未来の話もしなかった。
だが、リリアは知った。
これが、「生理的な幸福」なのだと。
安心して、目を閉じられること。
明日を想像して、緊張しないこと。
大きな言葉は、もういらない。
静かな夜の中で、
二人は確かに、伴侶になっていた。
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