第5話:日常という名の儀式

第5話:日常という名の儀式


 朝は、いつも同じ音から始まる。


 城の中庭で、鳥が一声鳴く。

 風が石畳をなぞる。

 遠くで、誰かが扉を閉める音。


 ギルバートは、窓辺に立っていた。


 眠れた。

 それだけで、今日はいい日だとわかる。


 背後に、気配。


 振り返らなくても、誰だかわかる。


 リリアだ。


 彼女は、声をかけない。

 彼も、声を出さない。


 視線が、合う。


 ――一秒。

 ――二秒。

 ――三秒。


 世界が、そこに留まる。


 五秒目で、リリアが小さく頷く。


「……おはよう」


 ギルバートの声は、低く、穏やかだった。


「……はい」


 それだけ。


 それ以上はいらない。


 朝の五秒間の沈黙は、確認だ。

 今日も、呼吸ができているか。

 世界が、騒ぎすぎていないか。


 執務の時間。


 ギルバートが外套を羽織るとき、リリアは近づかない。

 代わりに、彼の動きを見る。


 肩の高さ。

 歩幅。

 呼吸の速さ。


「……今日は、少し冷えますね」


 それは忠告ではない。

 指示でもない。


 ただの共有。


「……ああ」


 彼は、外套の前を留め直す。


 城門の前。


 別れ際。


 リリアが、ほんの一瞬、手を伸ばす。


 触れるのは、指先だけ。


 握らない。

 引き留めない。


 温度だけを、確かめる。


 ギルバートは、その感触で、自分の体調を知る。


「……戻ったら、茶を」


「……同じ時間に」


 約束ではない。

 予定でもない。


 ただの、一致。


 その日から、辺境領は少しずつ変わった。


 夜。


 眠れなかった兵士が、眠るようになる。


「……最近、夜中に目が覚めなくなったんです」


 食堂で、兵士がぽつりと言った。


「怒鳴られる夢を、見なくなりました」


 別の者が、頷く。


 誰も命令していない。

 誰も指導していない。


 だが、怒号が減る。


 声の大きさが、揃っていく。


 畑。


 荒れていた土地に、芽が出る。


「……土が、柔らかい」


 農夫が、驚いたように言う。


「去年は、鍬が跳ね返ってきたのに」


 リリアは、土に魔法をかけていない。

 ただ、人のリズムが整った。


 怒りが減り、

 睡眠が増え、

 足取りが穏やかになる。


 それだけで、土地は応える。


 夕方。


 二人は、同じ時間に茶を飲む。


 温度は、少しぬるめ。

 香りは、主張しない。


 ギルバートが、湯気を吸い込む。


「……昔は」


 彼は、ぽつりと言った。


「……何かをしなければ、価値がないと思っていた」


 リリアは、何も言わない。


 彼の声が、続く。


「強くなければ。

 守らなければ。

 勝たなければ」


 カップが、皿に触れる音。


「……でも、今は」


 彼は、リリアを見る。


「何もしない時間が、一番、世界を保っている」


 リリアは、微かに微笑んだ。


「……儀式みたいですね」


「……ああ」


 彼は、頷く。


「誰にも見えない、儀式だ」


 夜。


 城が静まる。


 遠くで、風が鳴る。

 だが、それはもう、刃ではない。


 ギルバートは、眠る前に思う。


 派手な誓いも、

 劇的な愛も、

 ここにはない。


 だが。


 壊れない日常が、ここにある。


 リリアもまた、同じことを考えていた。


 愛されなくていい。

 誇られなくていい。


 ただ、今日も。

 明日も。


 同じ時間に、

 同じ温度の茶を飲めるなら。


 それで、世界は十分だ。


 秩序は、命令からは生まれない。

 罰からも、生まれない。


 静けさが、選ばれ続けた結果だ。


 二人は、今日も同じ城にいる。


 それだけで、辺境は守られていた。


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