第3話:マイクロ・チェックインの魔法
第3話:マイクロ・チェックインの魔法
その日、ギルバートは執務室にいた。
書類は机に広がったまま。
文字は読めているはずなのに、意味が頭に入ってこない。
――浅い。
自分の呼吸が、浅くなっているのがわかった。
胸の奥で空気が止まり、肩だけが上下する。
視界の端が、わずかに揺れる。
(……来るな)
彼は無意識に、指先に力を込めた。
その瞬間だった。
リリアが、音もなく動いた。
まず、窓。
外の風が強まったのを、彼女は察していたのだろう。
ガラス戸を静かに閉める。
金具が触れ合う音すら、耳に刺さらない。
次に、カーテン。
陽光が、少し強すぎた。
布が引かれ、光が柔らかく砕ける。
部屋の色が、落ち着く。
そして、机の端に置かれる一杯の湯気。
ハーブティー。
刺激のない、ほのかに草の匂いがするもの。
ミントではない。
柑橘でもない。
“目立たない”香り。
ギルバートは、息を止めていたことに気づいた。
ゆっくり、吸う。
吐く。
肩の力が、抜ける。
「……なぜ、わかった?」
自分でも驚くほど、低い声だった。
リリアは、彼を見ない。
視線を合わせない。
少し横に立ち、同じ空気を共有する距離。
「聞こえたからです」
「……何がだ」
彼女は、ほんの一拍、間を置いた。
「言葉じゃなくて……リズムが」
リズム。
その言葉に、ギルバートは目を伏せた。
確かに彼女は、何も尋ねない。
「大丈夫ですか」とも言わない。
苦しさを、名前で囲い込まない。
ただ、ズレを戻す。
自分の神経が、過剰に張りつめる前に。
(……侵入されていない)
それが、奇妙だった。
普通、人は踏み込む。
善意という名で、土足で。
だが彼女は、境界線の手前で止まる。
勝手に触れない。
勝手に癒さない。
必要な分だけ、環境を整える。
ギルバートは、ハーブティーに手を伸ばした。
指先が、少し震えている。
だが、カップは温かかった。
熱すぎず、冷たすぎず。
一口含む。
喉を通る感触が、穏やかだ。
「……」
言葉が、いらなかった。
部屋には、音がある。
暖炉の火。
紙が擦れる音。
彼女の呼吸。
だが、それらは情報にならない。
ただ、背景になる。
「……君は」
ギルバートは、ぽつりと言った。
「……怖くないのか」
リリアは、首を横に振る。
「怖いですよ」
「……それでも?」
「境界が、わかるから」
その一言が、胸に落ちた。
境界。
彼がずっと守ろうとして、守れなかったもの。
彼女は、それを壊さない。
支配もしない。
依存させない。
ただ、調整する。
彼は、初めて理解した。
これは魔法だ。
派手ではない。
誇れもしない。
だが――生きられる。
「……ここに」
彼は、ゆっくり言った。
「……君がいると、呼吸を忘れない」
リリアは、何も言わない。
ただ、小さく頷いた。
それで十分だった。
この女は、踏み込まない。
この女は、奪わない。
彼の世界に、無理なく溶け込み、
壊れかけたリズムを、静かに戻していく。
ギルバートは知った。
――これが、信頼なのだと。
恋よりも先に。
言葉よりも前に。
二人の間にあったのは、
微細な確認(マイクロ・チェックイン)。
今日も生きているか。
今日も、息ができているか。
それだけを、確かめ合う魔法だった。
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