第1話:花束よりも「視線」

第1話:花束よりも「視線」


 謁見の間は、息が詰まるほど甘い匂いで満ちていた。


 赤い。

 とにかく赤い。


 薔薇、百合、異国の香草。

 蜜のように重い香りが混ざり合い、空気そのものが粘ついている。


「……受け取れ、リリア」


 アルベルトが差し出した花束は、腕で抱えきれないほど大きかった。

 拍手が起こる。

 貴族たちの、わざとらしい微笑み。


「これが最後の情けだ。長年の婚約に対する、礼儀というやつだな」


 リリアは一歩も動かなかった。


 頭の奥が、じわりと痛む。

 こめかみが締めつけられるように脈打つ。

 喉の奥が、かすかにひりつく。


(……来た)


 この匂い。

 この圧。

 この「見られている」感じ。


 花束を渡されるたびに、いつもこうだった。

 祝福される場なのに、体は逃げ場を探していた。


「聞いているのか?」


 アルベルトの声が、少し苛立つ。


「攻撃魔法も使えないお前は、俺の隣に立つ価値がない。

 公爵家の妻として、恥を晒すだけだ」


 その瞬間。


 ――すとん、と。


 胸の奥にあった何かが、落ちた。


 悲しみではない。

 怒りでもない。


 軽さだった。


(……あ)


 頭痛が、消えている。


 さっきまで締めつけていたこめかみが、嘘のように静かだ。

 呼吸が、深く入る。

 肺の奥まで、空気が届く。


「……リリア?」


 アルベルトが訝しげに眉をひそめる。


 彼の声が、遠い。

 花の匂いも、少しだけ薄く感じる。


(私は……)


 その時、リリアははっきり理解した。


(ずっと、苦しかったんだ)


 この人の隣で。

 この期待の中で。

 この“正しい婚約者”という役割の中で。


 大きな花束。

 派手な賛辞。

 「誇らしい妻になれ」という言葉。


 どれもが、重かった。


「……受け取らないのか?」


 アルベルトが声を強める。


 貴族たちがざわつく。


「まさか、最後まで礼を欠くつもりか?」

「無能な上に、態度まで悪いとは」


 リリアは、ゆっくりと顔を上げた。


 アルベルトを見る。

 ――正確には、見ない。


 彼の肩越し。

 その奥の、何もない空間を見る。


 視線を合わせると、また息が詰まる。

 だから、合わせない。


「……花束は、いりません」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「は?」


「重いので」


 ざわ、と空気が揺れる。


「重い、だと……?」


 アルベルトが笑う。


「それが理由か? そんなもの、妻になる者の務めだろう」


「いいえ」


 リリアは、はっきり言った。


「私には、向いていません」


 沈黙。


「……攻撃魔法も使えず、

 花束すら受け取れない女が、何を言う」


「そうですね」


 リリアは、少しだけ微笑んだ。


 自嘲ではない。

 諦めでもない。


「だから、追放で結構です」


 誰かが息を呑む音。


「追放……だと?」


「はい」


 リリアは、背筋を伸ばした。


「私は、戦えません。

 派手な魔法も使えません。

 誰かを誇らせることもできない」


 一つ、深呼吸。


「でも――」


 胸が、楽だ。


「安心して、息ができます」


 アルベルトの表情が、歪む。


「……強がりだな」


「いいえ」


 リリアは首を振った。


「今、初めて分かりました」


 花の匂い。

 視線の圧。

 期待という名の拘束。


「私は、ここでは呼吸できなかった」


 追放の宣告が下る。


 冷たい声。

 形式的な言葉。


 けれどリリアの耳には、

 それはまるで――


(扉が、開く音)


 だった。


 謁見の間を出る。

 重たい扉が閉まる。


 その瞬間、匂いが変わる。


 石の廊下。

 冷たい空気。

 何も主張しない、静かな匂い。


「……はあ」


 自然と、息が漏れた。


 軽い。

 頭が痛くない。

 視線を気にしなくていい。


 誰も、評価しない。

 誰も、期待しない。


(私は、追い出されたんじゃない)


 歩きながら、リリアは思う。


(逃げ出したんでもない)


 ただ――


(解放された)


 花束よりも。

 言葉よりも。

 彼女が欲しかったのは、


 自分の呼吸を、自分で選べることだった。




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