12月24日 ―― I wish you a merry Christmas.
12月24日
―― I wish you a merry Christmas.
雪はまだ降っていなかった。
けれど空気は、確かに「降る前」の匂いをしていた。
指先が少し冷たい。
窓を開けると、夜気が頬を撫でて、ろうそくの火がわずかに揺れた。
「……寒くない?」
背後から、低い声。
振り向かなくても、誰だかわかる。
「大丈夫。空気を確かめてただけ」
「確かめる、って?」
「今日は、音が少ない日だから」
彼――ギルバートは、少しだけ考えてから、静かに頷いた。
「確かに。遠くの街の鐘も、控えめだ」
部屋には、焼きたてのパンの匂い。
バターと、ほんの少しの蜂蜜。
暖炉の薪がはぜる音が、一定のリズムで続いている。
過剰じゃない。
足りなくもない。
――ちょうどいい。
「リリア」
「なに?」
「……今日は、無理をしなくていい日、だよな?」
その問いかけが、彼らしい。
祝う前に、安全かどうかを確認するところが。
「ええ。何もしなくていい。
頑張らなくていい。
声を張らなくていい」
「……それなら」
彼はそう言って、椅子を少し引いた。
距離は、腕一本分。
近すぎず、遠すぎない。
「ここにいてもいい?」
「もちろん」
返事は短く。
でも、その瞬間、空気がふっと柔らいだ。
外で、誰かが笑っている。
遠くの通りから、子どもの声。
雪を待つ夜の、くぐもった音。
「……昔さ」
ギルバートが、ぽつりと言う。
「クリスマスって、苦手だった」
「うん」
「眩しくて。
音が多くて。
期待される感じが、息苦しくて」
「わかる」
即答すると、彼は少し驚いた顔をした。
「即答だな」
「だって、同じだったもの」
カップを両手で包む。
ハーブティーの湯気が、視界を曇らせる。
「『楽しまなきゃ』って言われるほど、
体がこわばる日だった」
「……」
「笑顔を作る準備で、もう疲れてた」
沈黙。
でも、重くない。
暖炉の火が、ぱち、と鳴った。
「今は?」
彼が聞く。
「今は……」
言葉を探して、少し間を置く。
「呼吸が、深い」
それだけで、十分だった。
ギルバートは、目を伏せて、静かに息を吐いた。
「……俺もだ」
外套を脱ぐ音。
革が擦れる、低い音。
「ここに来てから、
“楽しい”より先に、
“落ち着く”が来るようになった」
「それ、いい順番だと思う」
「俺も」
彼は、少しだけ笑った。
大きくもなく、誇示もない、控えめな笑み。
テーブルの上には、小さな飾り。
派手なツリーはない。
鈴も、最小限。
「……プレゼント」
ギルバートが、小さな包みを差し出す。
「開けてもいい?」
「今じゃなくてもいい」
「今がいい」
紙をほどく。
中にあったのは、厚手の手袋。
柔らかい。
指を入れると、内側がほんのり温かい。
「魔法、かけてある?」
「……ほんの少し。
血流を邪魔しない程度に」
「過剰じゃないのが、あなたらしい」
「リリアが嫌がると思って」
「正解」
指先を動かすと、布がすべる。
違和感が、まったくない。
「ありがとう」
「……こちらこそ」
間が、心地いい。
外で、ようやく雪が降り始めた。
静かで、細かくて、音を吸い込む雪。
「メリークリスマス、リリア」
彼が、少し照れたように言う。
「……英語で言う?」
「え?」
「今日は、そういう日でしょう」
ギルバートは一瞬ためらってから、ゆっくり口を開いた。
「I wish you a merry Christmas」
発音は完璧じゃない。
でも、声が柔らかい。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「ありがとう」
彼の方を見る。
「I wish you a merry Christmas, too」
視線が合う。
長くは続かない。
でも、逸らさなくても苦しくない。
「……キス、する?」
彼が、慎重に聞く。
「今日は、しなくても幸せ」
「……うん」
それでも、彼は少しだけ近づいた。
額と額が、軽く触れる。
呼吸が、同じ速さになる。
「……静かな夜だな」
「ええ」
雪は、降り続けている。
誰かを圧倒する祝福じゃない。
世界を変える奇跡でもない。
ただ、
今日を無事に終えられること。
「明日も、ここにいよう」
「うん」
ろうそくの火が、静かに揺れた。
――楽しいクリスマスを。
無理をしなくていい、
心がちゃんと休める夜に。
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