第9話 動こうとする原田、止める木村


 対象者の部屋の前の空気が、

 目に見えるほど重く沈み始めていた。


 部屋の中では、

 誰かが息を殺して泣いている音がする。

 浅く、苦しげで、今にも途切れそうな呼吸。


 木村は壁に手を置き、目を閉じた。


「……揺れが、限界に近い」


 原田には、ただの静寂にしか聞こえない。

 だが木村は、

 そこに“昨日の濃度”を感じ取っているらしい。


「このままだと……この子は、

 昨日の中で死ぬ」


 木村の声は淡々としているのに、

 どこか痛みがにじんでいた。


 次の瞬間──


 部屋の中で、何かが大きく倒れる音がした。


 ガシャァン!


 原田は即座に反応した。


「……まずい。

 これは、寿命調整課なら──」


 そう言いながら、

 原田は部屋のドアへ一歩踏み出した。


 寿命調整課として刷り込まれた“危機への反応”。

 数字を守るための行動。

 わずかな揺れを正すための癖。


 触れたら、

 “介入”になる。


 その一歩を踏み出した瞬間──


 木村の手が、原田の腕を強く掴んだ。


「動くな」


 今まで聞いた中で、一番鋭い声だった。


 原田は思わず立ち止まる。


「しかし──」


「動くな。

 これは……観測の仕事じゃない」


 木村は原田を掴んだまま、

 揺れる瞳で言った。


「寿命を伸ばしたい衝動が出るのは分かる。

 数字を見てきたあなたなら、なおさら」


「衝動ではありません。

 合理的な判断です。

 このままでは──」


「死ぬよ」


 木村は即答した。


「でも……それが“彼女の寿命”なんだ」


 原田は言葉に詰まる。


「……あなたは、それで納得できるんですか?」


 その声には、

 これまでなかった温度が宿っていた。


 木村は一度、目を閉じた。


 そして、

 まるで傷口に触れるような声で言う。


「……できないよ」


 原田は息を呑んだ。


「できない。

 本当は、助けたい。

 昨日に沈んでいく人間を見るのは……耐えられない」


 木村の指先が、かすかに震えた。


「でも、それでも……動いたら終わりなんだよ」


「終わり……?」


「死神として終わる。

 存在ごと、ね」


 木村は原田の腕を、そっと離した。


「介入したら……死神じゃなくなる。

 “消される”」


 その言葉は、

 風より冷たく、煙より重かった。


 原田の胸に、何かが沈む。


「原田。

 あなたはまだ、死神としての“揺れ方”を知らない」


「……」


「でもね、

 死にゆく人の昨日に触れると……

 動きたくなるんだよ。

 助けたくなるんだよ」


 木村は唇を噛んだ。

 タバコを吸う代わりに、指を握りしめる。


「その気持ちを……

 必死に押さえ込むのが観測課」


 壁の向こうで、嗚咽がまたひとつ落ちた。


 原田は、言葉を失った。


 木村は静かに続けた。


「動かない死神は、冷たいんじゃない。

 動かないように……必死に怖がってるんだよ」


 その瞬間、

 原田は初めて“観測の重さ”に触れた気がした。


「行こう、原田。

 今は……揺れを見届けるだけ」


 木村が歩き出す。


 その背中から漂う煙草の匂いが、

 原田の胸に強く刺さった。


 嫌いな匂いのはずなのに、

 なぜか、離れなかった。

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