第8話 昨日の形
再び集合住宅へ戻ると、
先ほどよりも、空気が重く沈んでいるのが分かった。
夕闇は夜へと変わりつつあり、
蛍光灯の光が、窓に浮かぶ影を濃くしている。
木村は階段を上がりながら、
対象者の部屋の前で足を止めた。
「……昨日が、形になり始めてる」
原田が耳を澄ますと、
室内で布団をかきむしる音が聞こえた。
荒い呼吸。
物を掴んで、投げる音。
言葉にならない声。
それらが混ざり合い、
“崩れていく昨日”を描いている。
「昨日の何が……形に?」
「孤独と、後悔」
木村は淡々と言った。
だが、その声の底には、
わずかな震えがあった。
「昨日の夜、この子は恋人に
『別れたい』と告げられた。
……正確には、“別れさせられた”に近いかな」
「どういう意味ですか?」
「相手に、別の人ができたんだよ。
昨日のうちに」
原田は、息を呑んだ。
それは人間では、
決して珍しい話ではない。
だが、死期と絡むと、
その重さはまるで違って見える。
木村は続けた。
「この子は今日、
仕事も休んで、誰とも話さず、
食事もとらず、
ずっと昨日を見てる」
室内で、クシャッという音がした。
たぶん、写真だ。
「昨日を壊せば、楽になる。
でも、壊したところで、昨日は消えない」
木村は、壁越しの影を見つめた。
「昨日は……
匂いとして残るから」
原田は壁に目を向けたが、
そこには、静かな白い壁があるだけだった。
だが木村には、
そこに“昨日の濃度”が
はっきりと見えているようだった。
「木村さん……
あなたには、すべて見えるんですか?」
「見えるんじゃなくて……
感じるの」
「匂いで?」
木村は、短く首を振る。
「心の匂いって、
目じゃなくて……
胸で嗅ぐものだよ」
言葉にすれば、きれいだ。
けれど、原田にはまだ理解しづらい。
それでも、
木村が言うと、
妙に真実味を帯びて聞こえた。
「昨日ってね……
嘘をつけないんだよ」
木村はそう言って、
ポケットからタバコを取り出しかけ、
吸えない場所だと気づいて手を止めた。
その一瞬で、
木村の横顔が、苦しげに揺れる。
「昨日の匂いが濃い人を見ると……
息が詰まるの」
「息を……?」
「死神なのにね。
変だよね」
かすかな自嘲が混ざった。
「でも、私には……
昨日に溺れそうな人を見ているのが、
一番つらい」
沈黙が落ちる。
対象者の嗚咽が、
細く、途切れ途切れに響いた。
「……このままだと」
木村は、言葉を続ける。
「この子は、
昨日に飲まれて死ぬ」
「本当に……
息を引き取るのですか?」
「予定では、今日。
でも、昨日の重さ次第では……
もっと早くても、おかしくない」
木村は眉を寄せ、
壁にそっと触れた。
その指先が、震えている。
原田は、思わず口を開いた。
「木村さん……
休んだほうが」
「だめ」
即答だった。
「観測は、
揺れの濃度が一番高い瞬間を
見逃したら意味がないの」
木村は深く息を吸い、
煙のない空気を、ゆっくりと吐き出す。
その仕草は、
タバコよりも、
ずっと苦しそうだった。
「行こう。
昨日と今日の境目は……
もうすぐ、壊れる」
木村は背を向けて歩き出す。
原田は、その背中を静かに追いながら、
胸の奥に、重く残り始めた“匂い”の正体を、
まだ、知らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます