第7話 煙だけが、昨日を薄めてくれる
対象者の部屋から離れ、
木村は無言で集合住宅の外へ出た。
そのまま、まっすぐ喫煙所へ向かう。
歩く速度が、ほんの少しだけ速い。
普段の、落ち着いた足取りではなかった。
原田は、その後ろ姿を黙って追った。
喫煙所に入ると、
木村はすぐにタバコを三本まとめて取り出す。
火をつける。
一本吸いきる前に、次の一本に火が移った。
煙が一気に増え、
狭い空間を白く染める。
「……吸いすぎでは?」
原田が言うと、
木村は、かすかに笑った。
「こういう日だけ、ね」
「揺れが……強いからですか?」
「うん。
観測ってね……
昨日の匂いを浴び続ける仕事なの」
木村は煙を深く吸い込み、
ゆっくりと吐き出す。
「昨日が重い人に会うと、
その匂いが服につく。
髪につく。
心にも、つく」
煙と一緒に落ちていく声は、
普段の木村より、ずっと弱かった。
「私はね……
匂いを薄めるために吸ってるの」
「……薄める?」
「うん。
誰かの昨日を受け止めたあと、
そのままだと……潰れるから」
その言葉は、
冗談でも、比喩でもなかった。
木村の手は、わずかに震えている。
タバコの火も、揺れていた。
「原田。
昨日ってね……
きれいなだけじゃないの。
腐った匂いのときもある。
痛い匂いのときもある。
触れたら、沈む匂いのときもある」
原田は、沈黙した。
「数字だけしか見てこなかった原田には、
本当は、もっと軽く理解してほしかったけど……
今日の子は、少し重すぎるね」
「木村さん、あなた……」
原田は、言葉を探した。
しかし、見つからなかった。
木村は、続ける。
「私は死神だけど……
まだ、割り切れるほど強くないんだよ」
煙が、いっそう濃くなる。
「本当はね、
昨日に寄り添わなければいいの。
数字だけ見て、淡々とすれば楽。
でも……私は、それができない」
木村はタバコを次々と吸いながら、
壁にもたれた。
「昨日に触れると、
その人を助けたいって……思ってしまう」
その瞬間、
原田の胸が、ほんの少しだけ熱くなった。
「助けたいと思ってはいけないんですよね」
「うん。
それは“死神としての禁忌”だから」
木村は笑った。
けれど、その笑顔は、
泣きそうな笑顔に見えた。
「だから吸うの。
煙を吸えば、
昨日が、少し薄まるから」
木村はタバコを踏み消し、
ようやく呼吸を整えた。
「……ごめんね。
見苦しいところ」
「いえ……」
原田は、その先の言葉を飲み込んだ。
なぜだか分からない。
けれど、
木村が吸い込んだ煙の匂いが、
胸の奥に残って、消えなかった。
「行こう。
まだ、終わってない」
木村は、いつものように背筋を伸ばす。
しかし、その肩には、
明らかに“昨日の匂い”が張りついていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます