第6話 揺れが強くなる瞬間


 再び集合住宅の前に戻ると、

 辺りはすっかり薄暗くなっていた。


 室内の灯りが、ぼんやりとオレンジ色に滲んでいる。

 窓のカーテン越しに揺れる、

 泣き疲れた人間特有の、重たい明かりの揺れ。


 木村は建物を見上げ、立ち止まった。


「……揺れが強くなってきた」


「“揺れ”とは、死に近づいているという意味ですか?」


「ううん。

 昨日が、今日を押しつぶそうとしてるって意味」


 木村の声は、ひどく静かだった。


 原田が対象者の部屋を見つめていると、

 木村はそっと階段の方へ歩き出す。


「少し近づくよ」


 二人は階段を上がり、

 対象者の部屋の前で立ち止まった。


 壁越しに、何かが倒れる音がする。

 皿か、写真立てか。

 そんな軽い衝撃音。


 木村の肩が、わずかに揺れた。


「……思い出を壊し始めてるね」


「どうして分かるんです?」


「人間は、昨日を壊すことで今日を生き延びようとするから。

 でも……それをやり始めたら、もう限界に近い」


 木村は唇を噛んだ。

 その手は、タバコを求めるようにポケットへ伸びるが、

 思いとどまって、拳を握る。


「ここでは……吸えない」


 そのわずかな苦しさが、

 原田には不思議だった。


 木村は普段、淡々としていて、

 感情の揺れを表に出さない。


 だが、今は違う。


 タバコを吸えないことではなく、

 対象者の“揺れ”を前にして、

 静かに追い詰められているように見えた。


「木村さん。

 あなたでも……揺れるんですか?」


 原田の問いに、

 木村は答えるまで、少し間を置いた。


「……揺れるよ」


 その言葉は、

 風に消え入りそうなほど静かだった。


「人の“昨日”を見るのは……しんどいから」


 原田は、返す言葉を失う。


 木村は壁に背を預け、

 深呼吸をひとつだけして言った。


「昨日に捕まったまま死ぬ人を見るのが……

 本当は、一番つらいんだよ」


 その声は、ひどく弱かった。


 原田は、心がわずかに揺れるのを感じた。

 木村の弱さを初めて見たからか、

 それとも、背中から漂う“匂い”のせいなのか。


「……木村さん。

 あなたは、よくこんな仕事を続けられますね」


「続けてないよ」


「?」


 木村は、小さく笑った。


「耐えてるだけ」


 その笑みは悲しげで、

 それでも、どこか諦めきれない温度があった。


 部屋の中で、

 また物が落ちる音がした。


 木村はその音に目を細めて言う。


「……行こう。

 揺れは、ここからもっと濃くなる」


 歩き出した木村の背中は、

 いつもと変わらず、まっすぐだった。


 しかし原田には、

 その背中から“昨日の匂い”が、

 はっきりと感じられる気がした。


 初めて、理解に近づいたような──

 苦しさに似た感覚が、胸に残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る