第5話 原田の否定
対象者の部屋の前から離れ、
二人は集合住宅の裏手にある小さな公園へ出た。
夕方の空気はわずかに冷えている。
ブランコの鎖が風に揺れ、カラリと乾いた音を立てた。
その音を背に、木村はタバコに火をつける。
深く吸い込み、長く、細く煙を吐いた。
原田は距離をとりながら、静かに口を開く。
「……やはり、観測には意味があるとは思えません」
「そう」
木村は端的に返した。
煙がふわりと風に流れ、
原田の立つ方角へと漂ってくる。
「寿命は決まっている。
死ぬ前の揺れを見たところで、
その人は結局……死ぬだけです」
「うん。そうだね」
同意されたことが、逆に原田の胸をざわつかせた。
「では、なぜ観測する必要が?」
木村はタバコを持つ手を止め、原田へ向き直る。
黒髪が、夕風に揺れた。
「原田。
数字しか見てこなかったんだね」
「数字は正確です」
「正確だよ。でも……」
木村はひとつ、煙を吐き出す。
その煙はすぐに消えず、しばらく形を保って漂った。
「“正確”と“真実”は同じじゃない」
「……?」
「寿命は正確に決まる。
でも、人が死ぬ理由は真実じゃない。
人が死ぬ“気持ち”は……もっと曖昧で、
もっと汚れていて、
もっと匂うんだよ」
原田の眉が、わずかに動いた。
「匂う……?」
「うん。
昨日に触れるとね、匂いが残るの。
数字じゃ消えない匂いが」
原田には理解できなかった。
だが、木村の声は穏やかで、真剣だった。
「原田。
人が死ぬとき、昨日の匂いが一番濃いの」
「……匂いを知って、何になるんです?」
珍しく、原田の声に固さが混じる。
「救えないなら、観測は無意味です」
木村はタバコを指先で弾き、灰を落とした。
「無意味だよ」
原田が、息を止める。
「観測は無意味。
見ても変わらないし、助けられない。
死ぬ人は死ぬ」
「では、なぜ──」
「……でもね」
木村の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「死ぬ人の“昨日”を誰かが見届けなきゃ、
その人は……本当に独りぼっちで死ぬんだよ」
久しぶりに吹いた強い風が、
木村の煙と髪をかき乱す。
「独りでも死ぬ。
でも、“誰にも見られずに死ぬ”のとは……違う」
原田は言葉を返せなかった。
木村はタバコを消し、立ち上がる。
「観測は無意味だよ。
でも、無価値ではない」
もう一歩、踏み込むように木村は言った。
「数字だけで死を見ようとすると……
いつか大事な匂いを見逃すよ」
原田は、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。
それが怒りなのか、困惑なのか、
それとも別の感情なのか。
判別はできなかった。
「行こ。
揺れはこれから強くなる」
木村は歩き出す。
原田は数歩遅れて、その背中を追った。
歩くたびに、
木村の残した煙の匂いが、
わずかに鼻に残って離れなかった。
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