第4話 木村の揺れ


 集合住宅の階段は、薄暗く静かだった。


 人の気配はあるのに、

 声だけが、どこにも落ちていない。


 原田は一段下で立ち止まり、

 木村はそのひとつ上から、対象者の部屋を見つめていた。


 空気が、わずかに温度を変えた気がした。


「ここで見よう」


 木村が指さしたのは、

 対象者の部屋の真横。


 壁越しに、かすかな音が届く。


 ――嗚咽。


 小さく、押し殺した泣き声。


 原田が眉を寄せると、

 木村は淡々とした声で言った。


「昨日から泣いてる」


「……観測データにはありませんでした」


「そりゃそうだよ」


 間を置かずに続ける。


「数字は、泣き声を拾わない」


 木村はポケットに手を入れ、

 タバコを取り出しかけて止めた。


 ここが室内だと気づき、

 小さく息を吐く。


 その仕草が、ほんのわずかに疲れて見えた。


「昨日、何があったんですか」


「恋人との別れ」


 一拍。


「……別れというより、捨てられた、かな」


 声は冷たい。

 けれど、その奥に、微かな震えが混じっていた。


「どうして、分かるんですか」


「匂い」


 即答だった。


 原田は言葉を失う。


「泣きながら部屋を歩くとね、

 香水も、柔軟剤も、

 “昨日の使い方”になる」


 木村は壁に視線を向けたまま続ける。


「量が増えたり、

 逆に、まったく使わなかったり。

 窓の閉め方ひとつにも、

 昨日の感情は残る」


 原田には、理解できなかった。

 それでも、木村の声は真剣だった。


「昨日が消えないまま今日を迎えると、

 死ぬ直前の揺れは、大きくなる」


 木村は、そっと壁に触れた。


 指先が、震えていた。


「……木村さん?」


 原田が声をかけると、

 木村はすぐに手を離す。


「ごめん。……ちょっとね」


 苦笑するような声。

 タバコを吸いたいのに吸えない、

 そんな“禁断症状”にも見えた。


 だが原田は、その背中に、

 別の言葉を感じていた。


 ――揺れている。


「木村さんでも……揺れるんですか」


「揺れるよ」


 迷いのない声だった。


「死ぬ直前の人を見るのは、慣れた。

 でも……」


 一拍、間を置く。


「死ぬ“理由”を見るのは、慣れない」


 それは職務の言葉ではなかった。

 傷を抱えた人間の声だった。


「昨日が重いとね、煙が増えるんだ」


「煙……ですか」


「うん。

 タバコの本数って、

 だいたい昨日の量なんだよ」


 言ってから、

 木村は自分でも可笑しかったのか、小さく笑った。


 けれど、その笑みは長く続かない。


 階段の隙間から差し込む光に、

 木村の黒髪が揺れる。


 原田の鼻に、煙の匂いはない。

 それでも――


 木村の“揺れの匂い”だけが、

 確かに残っていた。


「行こう」


 木村は階段を上がる。


「まだ、揺れは続くから」


 原田は、その一歩後ろを歩いた。


 嗅ぎ慣れないはずの匂いが、

 なぜか胸の奥に張りついて、離れなかった

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