第3話 観測とは、何を見るのか
現世の空気は、死神局のそれよりも湿っていて重い。
原田は毎度のことながら、
この“生の匂い”が苦手だった。
集合住宅の前。
曇天。
風に乗って、夕飯の匂いと、わずかな土の匂いが混ざる。
木村は歩道の縁に立ち、
ひとつの窓をじっと見上げていた。
「あそこ。対象者は二十七歳の女性」
淡々とした声。
「名前は呼ばないで。
揺れが乱れるから」
「……寿命は?」
「今日。予定ではね」
木村はそう答え、
ポケットからタバコを取り出した。
火をつけると、小さくチリ、と音がする。
「観測って、何をするんですか」
原田の問いは素朴だった。
疑問はあっても、反発はない。
木村は煙を吸い込み、ゆっくり吐く。
「何もしないよ。
見て、記録して、揺れを読むだけ」
「……意味は、あるんですか」
木村は一度、空を見上げた。
それから原田を横目で見る。
「揺れはね、数字に出ない」
「寿命は数字です」
「うん。でも──」
木村は言葉を切り、煙を吐いた。
「死ぬ“前”は、数字じゃない」
煙は風に流され、
建物の影へ溶けていく。
「昨日の匂いを残したまま死ぬ人と、
昨日を抱えきれずに死ぬ人。
その違いを見るのが、観測課」
「……死ぬと分かっているのに?」
「分かっているからこそ、見る」
そのとき、
窓の奥で、わずかに光が揺れた。
人が部屋を歩く気配。
木村の目が、ほんの少し細くなる。
「泣いてる」
「……見えるんですか」
「匂いで分かる」
原田は、わずかに間を置いた。
「……匂い?」
「昨日の匂い。
あの人、今日、誰とも話してない」
原田は窓を見る。
カーテンは閉め切られ、
外の世界を拒んでいる。
「どうして、分かるんですか」
「こういう時ね、灯りが揺れるんだ」
木村は静かに言う。
「人が泣いて動くと、影も揺れる。
その揺れ方に、孤独の匂いがある」
説明としては曖昧だった。
けれど、木村の声には迷いがない。
「寿命は確かに数字で決まるよ。
でも……」
一拍、間を置く。
「人が死ぬ時の匂いだけは、
どの予定表にも書かれてない」
木村はタバコを踏み消した。
原田のコートに、煙の匂いが残っている。
嫌いな匂いなのに、
息を吸うたび、意識に触れる。
「原田。
数字だけじゃ、人は分からない」
説教ではない。
感情もない。
ただの事実の提示だった。
その静けさが、逆に重い。
「……行こ。
もう少し、近くで見る」
原田は頷き、木村の後ろを歩く。
煙の匂いは、まだ肩に残っていた。
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