殺処分にあたりまして

@nyuke

殺処分にあたりまして

 健康は大事ですよええ、私がこうして歩くことができるのも、年不相応な健康のおかげ、それは誰のものでもなくもちろん私のものでもなく、健康というのはそれ単体で立脚しうる自然なのですよ、だから人一倍の健康は、まず何よりも、あなた自身よりも大事なのです。


 テレビの中で厚化粧の、およそ50半ばに見える女性、しかし実年齢は六十後半だという、その辺りの年齢はどれも大して変わらんなぁ、と独り言、されど男は黙って女性の健康論を聞いていた。


 ええ、これは本当。どれも本当。まず間違ったものなんてこの世界にありはしないのだけれど、だってそれを本当だと信じている人がいる限りは本当だから、とにかくも私たちには制御しえないのが健康、だから大事にね。


 アナウンサーは頷いている。こちらも五十半ばに見える厚化粧女。ちなみにどうすれは大事にできるのです?私たちには制御しえないのでしょう?とアナウンサーが聞いた。


 やはりそれは、発語に始まり、発汗、発酵、発明と例示されるもの。定期的に自分を分解し解き放つことだわ。あとはそう、このなんとか!サプリ!


 女は変なスタッカートを挟みながら元気に発語し右手に持っていた袋を見せた。袋には太線でデフォルメされたサプリの名前が付いている。「なんと一袋で千五百円!お買い得ですので、ぜひお買い求めを!」背を向けていたアナウンサーが振り返り、手に持っていた白い板を見せる。2,000円の文字に線が引かれ、1500円と下に書かれていた。アナウンサーは、後ろ姿は若かったのに、振り返ると、その女も厚化粧中年女であった。


 ひえっ、と呟く。男には、こういったネットショッピングの広告全般が嘘に見えてしまう癖があった。だからこそ見てしまった暁には大抵、くだらないなぁ、と考えテレビの電源を落としてしまう。果たしてこれを見て買う人間はいるのだろうか。


 電源を落とした後の画面は一斉に光を発することをやめて黒くなり、それはもう厚化粧女の黒々とした瞳と同じくらいに。

 やはり嘘をつくとは光を発することを止めること、何者でもなくなること、嘘は確かに存在するけれど嘘とは何者でもなくなることだから存在しないで計算されてしまう、だから、確かにこの世界に存在できるすべては本当かもなぁ、と男は変なことを考えやめた。


 男のいた部屋はきちりとカーテンが閉じきられており、光は逃げ場を探すように部屋の端をゆらめいている。


 部屋の中心に横たわるベットの上で、男は深刻そうにため息をついた。しかし彼が思っていたよりも深いため息が出、喉元に空気がつまり咳が飛び出す。


 ぼんやりとしながら男は、ああ、この溢れ出ることのない感情、願わくばカーテンもない窓もない部屋へと逃げ切りたいなぁ、と再びの独り言。だが男自身、その言葉の意味を理解していたわけではなかった。


 数分して、男は仕方なく部屋を出た。冷たいフローリングの上で注意深く左右を見渡し家に誰もいないことを確かめ、しかし母はもうスーパーに行ったはずだ、誰とも顔を合わせることなどない。


 存在するはずのない視線を感じずにはいられず、それは己を見つめる男の瞳なのだけれどいつまでも自覚することはない。もう一度左右を見回す。右手で擦り切れたジャージの裾を握る。


 廊下には、昼食が置かれていた。しかし、いつもならついているはずの「働け!」あるいは「手に職!」と言う趣旨のメモがない。


 男は一瞬の困惑、これはどう言うこと?働かなくていいと言うこと?あるいは、諦観?これは、とまりようのない諦観ということ?

 思考がバラバラに散りそうになる。しかしそれが当たり前のことだと男も知っていた。もう何年?部屋に居座り続けて、私は一体何を成そうとして何を成したのか。


 男はあっ!と叫んで思考を霧散させようとする。

 男は考えると言うことを常に心がけており、だがそのどれも本質をつかぬよう故意に制御していた。底に沈澱しているはずの最も重要な思考は静止したまま、上に言葉を滑らせ、その過程で重要な思考を圧縮する。それによって男は久しく忘れることができていた。


 しかしそれも終わりに近いのか、男はとりあえず廊下を一周し、トイレに入り、もう一度叫んだがどうにもならず、ああこれは危険、と事前に察知。これ以上いると家を壊してしまう。


 そして男は父の仏壇の前にも座らず服も着替えず顔も洗わず部屋の前の昼飯を食べようとしたことも忘れて走り出す。一年ぶりに家を出る。靴を履くのもまどろっこしく、ドアを壊すような勢いで開けてからは裸足で躍り出る。道路ではさっきテレビで見たような厚化粧女が何人ものさばっているが、奴らの黒々しい目は気にせずに走る。そこまで田舎でもないはずなのに道路のコンクリートのそこかしこに動物の糞が落ちており空気が獣臭い。


 男が部屋にいるうちに地球は着々と回転を続け変容していた。今では鹿が平気な顔で道路を歩く世界。だが男はそれを知る由もない。女、鹿、女、犬猫、女、ライオン、と遭遇していくうちに男は不思議がりながらも、異境の土地に転移したかのようで嬉しくなる。だが実際に、家からはまだ数歩の距離しか離れることができていなかった。道端に咲く花束はまともな色をして彼の視界の端を埋める。ああこれではいけない、もっと、もっと。


 荒い息を繰り返す。走っているうちに今度は熊と遭遇した。女、熊、熊、熊、女、なぜか熊の確率が高い。


 そして男にある疑問が浮上する。具体的には、なぜ皆が自分の後ろへと歩いていくのかということ。男は逆走?それとも他の全員が逆走?自分を追い越してくる人間あるいは動物は一体どこへ行ってしまったのか、もしくは存在しないのか。


 視線を落とした先にはありの行列ができていた。行列に運ばれるミミズの死骸、男は跳ねて飛び越える。正確には、飛び越えようとする。

 だが、久しく外に出ていなかった男の足は絡まり右足首のありえない角度での着地、そのまま視界は回転し、気づけばコンクリートの上に放り出されていた。イッテェナァと呟き頬を擦る。擦った掌からは異臭がして、何事かと見ると手には何もついていない。獣くささがある。獣。


 それから幾度か不健康そうな咳をして、再び男は立ち上がった。手についたコンクリートの粒をはらい走り出す。


 イメージとしては海岸線をかける健康な青少年。波打ち際が世界の端であった頃、あくまでも世界の端は模様を帯びていたのだ。男は懐かしく思いながらその狭い世界での全能感を味わっていた。すると、男が一歩踏み出すごとに体はどんどん幼くなっていった。太った体はみるみる細くなり、腕毛とすね毛に覆われた太い手足は細くつるつるしたものになってゆく。体だけが退行し、猫背が少しだけ改善されて視線が高くなる。体感で言うに、中学生くらいのものだろうか。アスファルトの道路が泥へと変容を始める。着々と体が沈んでゆくかのような感覚に囚われ始め、男は沈むことを避けようと足を素早く動かし続ける。止まってはいけない。


 走っていくうちに、道ははっきりとした輪郭を帯び始めた。それは男の通学路だった。住宅地の狭間には家庭菜園とも畑とも言えない規模の農地が点在している。動物も少なくなって女ばかりが蔓延り始める。慣れ親しんだ風景の脇を、足を引き摺るようにして走った。地域の少子化が進み男の通っていた校舎はすでに廃校になっていたが、男はそれを知る由もない。とにかく本能のまま走った。


 それは過去へと近づくということ、一方で過去に慰められるということ。未来のある自分に成り切り現実から逃れることは逃避でもある。校門の前には過去の自分の亡霊が見え隠れする。


 男はいつしか学校に着き、衝動のままに正門の柵を乗り越える。ドアをひき窓を引き、どこも空いていないと知るや躊躇なく窓を割る。学校に入り探索する。あの頃はまだ生きていられた。父の死ぬ前。まだ、夢を見ていられた。父と喧嘩し私はその夜家を出たが、それを追って外へ出た父が事故死したこと、その劇的な悲劇のあらまし。一階西棟の掃除用具箱の前で永遠に等しい時間が溢れ出す。男はゆっくりと屋上へ向かった。


 屋上の扉はとじきられていたが、十数年と同じように強い力でこじ開ける。屋上は強く風が吹いていた。手入れされなくなった校庭は雑草で埋め尽くされている。


 男は、その最期の記憶である屋上からの飛び込みを思い出していた。空気を切る疾走感と浮遊感、自由と恐怖の一瞬と、その後に延々と続いた部屋の中の光景。男の足は自然と屋上のヘリに向かっていた。屋上に柵はなかった。靴を揃えて脱ぐ。もう一歩足を踏み出す。地面にぶつかり砕け散る。粒の一つ一つとなって男の存在は分解され、気づけば男は部屋の中にいた。最初の部屋に戻ってきた。光に逃げ場はない。男は、目の前に置いてあった昼飯を眺める。メモを取り払ったのも、全て己の妄想。核心から意識を逸らし続けた代償であり、己は親孝行をとうとう最後まで遂行しなかった人間。


 殺処分につきまして、と空白に文字が浮かんでいるのが見える。恐ろしくなって頭を叩くがその文字は消えない。文字は浮遊し、置いてあった昼飯の上を旋回している。男はそのランチを震える手で掴んだ。文字も一緒についてくる。


 殺処分につきまして。そして男は決心し、おいてあった箸には目もくれず素手で食べ始める。食べている途中で眠くなる。男は最後まで食べ切ると同時に目を閉じた。女と獣の溢れる世界、男にとっての世界の姿は、そこで、とうとう長い眠りについたのだった。


(翌朝、男は本当に高校生となり中学生となり小学生となり彼自身の全てとなった。それは三日間続き、その度男は全てからの卒業を果たした。深い、深い妄想の中で、男はとうとう、真なる分解体)


 <了>




公募に送る作品です。ネット公開用に改行多くしました!


(もし誤字とか表記揺れとかあったら教えて!気にせずに書いてるから結構見逃してると思う)

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