毒を食らう聖女
ルミナリス神聖王国。
その国は大陸中央部に位置する、光の神「ルミナリス」を唯一神として崇める宗教国家。 王家よりも教会(聖教会)の権威が強く、白亜の城壁と尖塔が立ち並ぶ美しい国だが、その「清廉潔白」という教義の裏では、異端審問による粛清や、権力を持つ聖職者たちの腐敗が根深く進行していた。 エリナはこの国の「巡回聖女」として、特定の教会に留まらず、救済を必要とする各地へ赴く役目を負っていた。
辺境の村での事件から2年。
ルミナリス神聖王国の国内を巡るエリナの旅は、過酷さを増していた。
表向き、聖女の旅は「神の愛を民に届ける」輝かしいものとされる。だが現実は、魔獣の被害、流行病、貧困、そして何より――人間の醜い欲望との戦いだった。 エリナはこの2年間、泥にまみれ、血を浴び、時には救えなかった命を前に慟哭しながらも、決して足を止めなかった。
その傍らには常に、夜の闇を纏った女大悪魔、ヴァルニラの姿があった。
「あーあ、また徒労ね。せっかく治癒術で直してあげたのに、あの男、感謝するどころか『金を出せ』ですって。人間って、私が知る限りもっとも愚かで貪欲な家畜だわ」
馬車の屋根の上で、ヴァルニラが退屈そうに足を組み、あくびをする。 エリナは手綱を握り締めながら、前を見据えていた。かつてのような、悪魔に対する怯えや過剰な敵対心は、その横顔からは消え失せている。
「……彼も追い詰められていたのです。貧しさは、人の心から余裕を奪いますから」
「ふん、相変わらず物好きね」
この2年で、ヴァルニラの心境にも決定的な変化が訪れていた。
当初、彼女にとってエリナは「壊して楽しむ玩具」に過ぎなかった。清らかな精神が絶望に染まり、神を呪う瞬間を見たかった。 だが、エリナは折れなかった。どれほど汚辱にまみれようとも、彼女はその度に立ち上がり、むしろその「汚れ」さえも糧にして、より強靭な輝きを放つようになったのだ。
(壊すだけなら、造作もない。でも……)
ヴァルニラは、月明かりに照らされた聖女の横顔を盗み見る。 泥濘を歩きながらも、その魂の高潔さは少しも損なわれていない。それどころか、清濁を併せ呑む覚悟を決めたその瞳には、ある種の凄みが宿り始めている。
ただ惨めに這いつくばらせるだけではつまらない。 この女には、もっと相応しい席があるのではないか? 例えば――闇の理(ことわり)を理解し、その上で高潔に君臨する『魔性の聖女』として。
(私と対等の位置まで堕ちてきなさい、エリナ。そうすれば、この腐りきった世界を二人で嘲笑ってあげられるわ)
そんなヴァルニラの歪んだ期待に応えるかのように、二人の関係を変える決定的な事件が起きる。
王国の地方都市で、孤児院を運営する高位の司教、ベルモンド。 「慈愛の父」と慕われる彼だったが、その裏では身寄りのない子供たちを貴族の愛玩奴隷として売り飛ばす、人身売買の元締めという顔を持っていた。 エリナはその証拠を掴んだが、教会上層部に太いパイプを持つ彼を、正規の手順で裁くことは不可能だった。告発すれば、逆にエリナが「異端」として処理されるだろう。
深夜の礼拝堂。
ステンドグラスの下で、エリナは苦渋の表情で立ち尽くしていた。 法も、祈りも、子供たちを救えない。
「……ねえ、エリナ。手詰まりのようね」
影の中からヴァルニラが現れ、エリナの背後から蛇のように抱きつく。 甘い毒のような囁きが、耳朶を打つ。
「私なら、今すぐにでもあの豚の首を飛ばしてあげられるわよ? それとも、心臓を握り潰して『病死』に見せかけましょうか」
「……殺しは、許されません。それでは彼らと同じ獣に落ちてしまう」
「あら、潔癖ね。じゃあ指を咥えて見ているの? 今夜もまた一人、幼い子が売られていくわよ」
ヴァルニラは知っていた。今、エリナの心の中で、理想と現実が激しく火花を散らしていることを。 そして、彼女がどちらを選ぶかも。
長い沈黙の後。エリナはゆっくりと振り返り、大悪魔の燃えるような瞳を正面から見据えた。
「……ヴァルニラ。貴女の『力』を貸しなさい」
「あら? 神に背くの?」
「殺しは認めません。ですが……彼が自らの罪を吐き出し、二度と立ち上がれないほどの『罰』を与えること。それならば、神も目を瞑ってくださるでしょう」
それは、聖女としての越権行為であり、悪魔との明確な共犯だった。 だが、エリナの瞳に迷いはなかった。清廉なだけでは救えないものがある。ならば、毒を食らってでも、毒を制する力が要る。
ヴァルニラは、背筋がゾクゾクするほどの歓喜に震えた。 これだ。この顔が見たかった。 無知な清らかさではない。悪を知り、それを利用する強かさを身につけた、背徳的な聖女の顔。
「ふふっ……いいわ。その願い、聞き届けてあげる」
「ただし、条件があります。子供たちの目には触れさせないこと。そして――」
「わかっているわ。貴女の命令には、特別に従ってあげる」
その夜、司教ベルモンドは地獄を見た。 夢の中に侵入したヴァルニラによって、彼が過去に売り飛ばした子供たちの怨念を幻覚として見せ続けられ、精神を徹底的に破壊されたのだ。 翌朝、彼は広場の中心で、自らの罪を喚き散らしながら発狂した状態で発見された。
事件は解決した。子供たちは保護され、教会の腐敗も白日の下に晒された。 だが、その結末をもたらしたのは、神の奇跡ではなく悪魔の呪いだった。
街を去る馬車の中。 ヴァルニラは上機嫌で、エリナの隣に座っていた。
「時には毒を持って毒を制す。……そうでしょう? 聖女様」
エリナは流れる景色を見つめたまま、静かに口を開く。その声には、もう迷いも、無駄な潔癖さも残っていなかった。
「……否定はしません。清廉さだけで救えるほど、人の世は甘くなかった。ただ、それだけのことです」
「ふふ、いい顔になってきたわね、エリナ。貴女はもっと美しくなれるわ。」
エリナは溜息をつきながらも、以前のようにヴァルニラを拒絶することはしなかった。 隣り合う聖衣の白と、ドレスの黒。 相反するはずの二つの色は、今や奇妙なほど自然に溶け合っていた。
悪魔に見初められた元聖女はスローライフしながら、世界を愛おしむ 仮名カナタ @Marchu
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