ある夜の出来事

ヴァルニラという名の「影」に付きまとわれて半年。 精神的な摩耗は限界に達していたはずだが、聖女エリナの祈りの力は、皮肉にも研ぎ澄まされていた。 常に背後に大悪魔の気配を感じ続ける極限状態が、彼女の感覚を鋭敏にさせ、本来持っていた聖女としての資質を異常な速度で開花させていたのだ。彼女の力は、半年前とは比べ物にならないほどの輝きを放っていた。


ある日、エリナは辺境の村へと派遣された。 「奇病により村人が次々と倒れている」という救援要請に応じたものだった。

村に足を踏み入れた瞬間、エリナは違和感を覚える。 漂う空気は淀んでいるが、魔物特有の臭いがしない。村人たちはやつれ、虚ろな目でエリナを迎えたが、その態度にはどこか不自然なほどの従順さがあった。


(……おかしい。気配が、読めない)


それでも、目の前に苦しむ人々がいれば、聖女は錫杖を振るうしかない。 村の中央広場、集められた数十人の村人たちに向け、エリナは大規模な浄化の儀式を開始した。

「遍く光よ、病魔を退け、その根源を断ちたまえ――《聖域顕現(サンクチュアリ)》!」

エリナを中心に、視界を埋め尽くすほどの神聖な光が爆ぜた。 それは彼女の才能の結晶だった。通常なら数人の神官で展開する規模の浄化結界を、彼女はたった一人で、しかも一瞬で展開してみせたのだ。 村を覆っていた淀みは、この一撃で霧散するはずだった。

だが、光が村人たちに触れた瞬間。 彼らの喉から漏れたのは、安堵の吐息ではなく、耳をつんざくような絶叫だった。


「ギャアアアアアアッ!!」


「え……?」


エリナが目を見開く。 苦しむ村人たちを見て、術を中断してしまったエリナ。村人の口や目から、黒い泥のようなものが溢れ出す。それは形を成し、彼らの肉体を内側から操る糸となった。これは 奇病ではない。悪魔か何かに村人が、操られていることにエリナは気づいた。


「ヒヒッ、かかったな聖女ォ!」 「コイツの光は強すぎる! だが、人間(ホスト)ごとは撃てまい!」


黒い泥の正体は、小柄だが狡猾な下級悪魔(インプ)の群れだった。 彼らは村人を盾にしながら、一斉にエリナへと襲いかかる。


「やめ……離れて……っ!」


エリナは錫杖を構えるが、光を放てない。 準備もなく悪魔だけを焼き払うのは、同時に、憑依された村人の衰弱しきった魂までも焼き尽くしてしまう。 その躊躇いこそが、致命的な隙だった。


「ぐっ……ぁ!」


村人の一人が、虚ろな表情でエリナの腕を掴んだ。生身の人間の力とは思えない怪力。 聖なる結界は「悪意ある魔物」は弾けても、「ただの人間」は拒絶しない。 その綻びを突かれ、エリナは泥濘(ぬかるみ)の中へと押し倒された。

純白の修道服が、汚泥と排泄物の混じった泥にまみれる。 四肢を村人たちに押さえつけられ、その隙間から、下級悪魔たちが下卑た笑い声を上げて這い寄ってくる。


「上玉だ! この聖なる魂を穢せば、俺たちも上位に上がれるぞ!」 「まずはその綺麗な顔を絶望で歪ませてやる!」


下級悪魔の鉤爪が、エリナの頬に伸びる。 抵抗しようにも、人質となった村人たちを傷つけられず、エリナは唇を噛み締めて目を閉じることしかできなかった。 悔しさと絶望で涙が滲む。


(こんな、こんなところで……!)


爪が肌に触れる、その直前――。


『――不愉快ね』


世界が、凍りついた。

直後、音も衝撃もなく、エリナを取り囲んでいた下級悪魔たちが「消滅」した。 悲鳴を上げる間もなく、彼らは黒い灰となり、風にさらわれていく。 憑依していた悪魔が消え去ったことで、村人たちは糸が切れたようにその場へ崩れ落ち、深い眠りについた。

静寂が戻った広場に、コツ、コツ、とヒールの音だけが響く。


「あ……」


泥にまみれ、へたり込んだエリナの視線の先。 月光を背に、漆黒のドレスをなびかせたヴァルニラが降り立った。 彼女は汚物を見るような瞳で、灰になった下級悪魔の残骸を一瞥する。


「勘違いしないでちょうだい。貴女は私の獲物よ。こんな品のない下等生物に、私が半年かけて追い詰めている極上の果実を齧らせるなんて、私のプライドが許さないの」


それは慈悲などではない。 自分の所有物に傷をつけられたことへの、怒りと独占欲。 けれど、その圧倒的な「悪」の力に、今のエリナは救われてしまった。

ヴァルニラはエリナの前で膝を折ると、腰を抜かしている彼女の顎を、冷たい指先でくいと持ち上げた。 そして、泥で汚れたエリナの頬を、自らのハンカチで乱暴に、しかしどこか丁寧に拭い取る。


「……っ」


エリナは身を強張らせたが、抵抗はしなかった。 至近距離で交錯する視線。 半年前、地下墓地で出会って以来、二人は常に「捕食者と獲物」として対峙してきた。 だが今、初めて互いの瞳に、恐怖や殺意以外の色が混じった。

悪魔は、聖女の頬の汚れを拭い終えると、ふっと妖艶に微笑んだ。


「名乗っていなかったわね、聖女様」


彼女はエリナの耳元に唇を寄せ、契約を交わすかのように厳かに囁いた。


「私はヴァルニラ。夜の帳(とばり)を統べる者。……よく覚えておきなさい。貴女

を壊すのは、神でも魔物でもない。この私よ」


エリナは震える呼吸を整え、目の前の美しい悪魔を見据え返した。 泥だらけの惨めな姿でも、その碧眼だけは凛と光を宿している。


「……私は、エリナ。神に仕える、聖女エリナです」


それは、彼女が初めて悪魔(ヴァルニラ)に対して行った、対等な個としての宣言だった。


「貴女には屈しない。……けれど、この命を拾ったことには、感謝します。ヴァルニラ」


「ふふ、口だけは達者ね。せいぜいあがいてちょうだい、私の可愛いエリナ」


この夜、二人の関係は「一方的な狩り」から、奇妙で歪な「共犯関係」へと変質した。 聖女と悪魔。 互いに譲れないものを賭けた、油断ならない関係が続くのだった。

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