悪魔と聖女の出会い
王都の地下深くに広がる巨大墓地(カタコンベ)。 湿ったカビの臭いと、死者特有の腐臭が混じり合うその場所で、聖女エリナの祈りは唯一の希望の灯火だった。
「……迷える魂に、安らかなる帰還を。聖なる光よ、彼らの呪縛を解き放ちたまえ」
エリナが錫杖を掲げると、純白の光が波紋のように広がる。
闇の底から這い出そうとしていた死霊(アンデッド)たちが、その光に触れた瞬間に塵となり、さらさらと石畳へ崩れ落ちていった。 これで最後だ。エリナは小さく息を吐き、額に浮いた汗を拭う。この数日、王都の地下で頻発していた異変の元凶はあらかた浄化できたはずだ。そう安堵した、次の瞬間だった。
ぞくり。
背筋に、氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
それは、死霊たちが発する生温かい怨念とは違う。もっと根本的で、圧倒的な「捕食者」の気配。
「あら。随分と乱暴なお掃除ね」
闇の奥から響いたのは、鈴を転がすような、甘く艶やかな声だった。 エリナは反射的に振り返り、錫杖を構える。
「誰……っ!?」
暗がりから姿を現したのは、この陰鬱な地下墓地には似つかわしくない、夜会服のような漆黒のドレスを纏った女だった。 豊かな黒髪が闇に溶け、燃えるような金色の瞳だけが、暗闇の中で妖しく輝いている。頭部に見える捻じれた角。背中から伸びる蝙蝠の翼。
(悪魔……それも、上位の……!)
本能が警鐘を鳴らす。目の前にいるのは、今まで相手にしてきた低級な魔物とは次元が違う、「会話の通じる」災厄だ。
女悪魔――ヴァルニラは、怯えるエリナの姿を見て、口元を三日月のように歪めた。
「ふふ、いい匂い。恐怖と、使命感と、無知な信仰心……。まだ誰も手をつけていない、真っ白なキャンバスみたい」
ヴァルニラが一歩踏み出すだけで、地下墓地の空気が重く軋む。 エリナは震える唇を噛み締め、渾身の聖句を詠唱した。
「邪悪なる者よ、去りなさい! 神聖なる光の裁きを――!」
エリナの手から放たれた極光が、ヴァルニラを直撃する。
…… エリナの手から放たれた極光が、ヴァルニラを直撃する。 並の下級悪魔なら消滅し、上位の魔物でも悲鳴を上げるだけの一撃。 しかし。
「……随分と、可愛らしい抵抗ね」
煙が晴れた後、そこには傷一つないヴァルニラが立っていた。彼女はまるで春風でも浴びたかのように、煤けた肩を優雅に払う。
「な……っ」
「それが貴女の『神』の力? 必死に編み上げた祈りも、私にはそよ風程度にしか感じないわ」
絶句するエリナの目前へ、ヴァルニラは音もなく滑り寄った。 結界があるはずだった。けれど、彼女の前では薄紙一枚ほどの意味も成さない。 冷たい指先が、エリナの顎を強引に上向かせる。
「ひっ……!」
恐怖で瞳が揺らぐ。それでもエリナは、震える手で十字架を握り直し、ヴァルニラを睨み返した。涙目になりながらも、その瞳にある光だけは失われていない。
「……離れなさい、悪魔。私の身体は汚せても、信仰までは届かない……!」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルニラの金色の瞳が、ゾクリとするほど愉悦に細められた。
「ああ、それよ。その目」
ヴァルニラはエリナの首筋に爪を立てる代わりに、陶酔したように吐息を漏らした。
「殺しはしないわ。ただの肉塊に変えるには、その強情な魂(こころ)はあまりに『美味しそう』すぎるもの」
ヴァルニラはエリナの耳元に唇を寄せ、あえて聞こえるか聞こえないかの声量で、毒のように甘い言葉を注ぎ込んだ。
「ねえ、聖女様。貴女がそれほど信じる神様は、今この瞬間、貴女が私の指一本で喉を掻き切れる状況にあることを、どう思っているのかしら?」
「神は……私を、見守って……試練をお与えに……」
エリナは必死に自分に言い聞かせるように呟く。その健気で痛々しい姿こそが、悪魔の嗜虐心を何よりも刺激することを知らずに。
「ええ、見守っているでしょうね。安全な高みから、貴女がどれほど無様に震え、絶望するかを愉しみにしているのよ。――私と同じように」
その日、エリナは生きて地上へ戻った。 だが、それは悪夢の始まりに過ぎなかった。
それからの半年間、エリナの日常はヴァルニラという影に浸食された。 教会の礼拝堂で祈りを捧げていると、ステンドグラスの影から視線を感じる。 聖水を撒けば、
「今日はラベンダーの香りが足りないんじゃない?」
と嘲笑う声が脳内に響く。
眠れば夢の中に彼女が現れ、目覚めれば枕元に黒い羽根が落ちている。
彼女は決してエリナを傷つけない。 ただ、精神(こころ)の均衡を崩し、エリナ自らが「神などいない」と泣き崩れる瞬間を、極上のワインを開ける時のように待ち続けているのだ。
「まだ祈るの? 飽きないわねえ」
今日もまた、誰もいないはずの回廊で、あの甘い声がした。 エリナは十字架を強く握りしめる。指の関節が白くなるほどに。
(負けない。私は、負けない……)
けれど、その瞳の奥には、半年間の執拗な精神攻撃によって刻まれた、消えない疲労と恐怖の色が滲んでいた。 それを楽しむように、見えない場所で女大悪魔が高らかに笑う気配がした。
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