J
Jは、生まれつき「泣き虫」だった。
雨が降れば怯え、風が吹けば震え、誰かが自分を睨めば涙をこぼした。孤児院でも、奴隷商人の檻の中でも、彼は常に最弱の座にいた。
それでも彼がここまで生き延びてきた理由は、その臆病さの裏側に「生存のための引き金」が極端に短く設計されていたからだ。
奴隷商人に捕まる前、Jは名もなき貧民街のゴミ溜めにいた。
そこでは、大人も子供も関係なく、一切れのパンのために石を投げ合う。
ある日、Jより少し年上の少年が、Jが拾った腐りかけの果実を奪おうとした。その少年はJを地面に組み伏せ、その細い首を絞め上げる。
「よこせよ、泣き虫! お前みたいな弱虫には、これすら勿体ないんだよ!」
Jの視界がぼやける。
「ごめんなさい」「やめて」という言葉が喉まで出かかっていた。
けれど、脳の奥底にある冷徹な本能が、Jの体に「生存の最適解」を命じた。
Jは泣きながら、落ちていた鋭利な瓦礫の破片を握った。
そして、何の迷いも、ためらいも、躊躇もなく少年の頸動脈を、最も効率の良い角度で一気に掻き切った。
「あ……」
返り血が、Jの青い目と黒い髪を汚す。
少年の喉から血が溢れ出し、指先がピクピクと痙攣するのを、Jは涙をボロボロと流しながらじっと見つめていた。
「うう……っ、ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝りながら、Jは少年の動かなくなった指から、しっかりと果実を奪い返した。
彼はここで生きるためには必要な行為だと理解していた。
その後、奴隷商人に売られた檻の中でも、似たようなことが何度かあった。
Jをいじめ、あるいは食料を奪おうとした者は、次の日の朝には必ず死体となって発見された。
犯行は常に無惨だった。
急所を一突き、あるいは寝込みを襲っての窒息死。
誰もが、隅で震えて泣いている弱気なJが犯人だとは疑わなかった。
「こんなことしたかったわけじゃ………」
彼にとって「殺し」は、呼吸や排泄と同じ、生存のための不可避な反射だった。
罪悪感がないわけではない。ただ、彼の中では「死にたくない」という恐怖が、他者の命の重さを容易く塗りつぶしてしまうのだ。
そんな檻の中に、ある日、紫の髪の少女――Rが放り込まれてきた。
彼女は商人に無理やり連れてこられたはずなのに、まるでピクニックにでも来たかのように気怠げに座り込んでいた。
「……そんなに泣いて、貴重な水分の無駄遣いじゃない?」
Rは、隣で震えるJを一瞥して言った。
Jは驚いた。今まで出会った誰もが、自分を搾取するか、あるいは憐れむかだった。
けれど、Rのオッドアイには、彼に対する評価も殺意も、あるいは慈悲すらもなかった。
「…あの、えっと…名前は……?」
「…私はR。ここはご飯がひどいね。争奪戦でも、孤児院より人数少ないしマシかな」
Rの倫理観の欠如と、Jの生存への執着。
二人の歪んだ形は、その時から奇妙に噛み合ってしまった。
その日、三体目の「商品」が檻に放り込まれた。
それはJよりいくつか年上の、体格の良い青年だった。彼は檻に入るなり、鋭い目つきで周囲を威嚇した。
「おい、ガキども。今日からここでの飯は全部俺のものだ。文句があるならぶち殺してやる」
青年は、近くにいたJをターゲットに定めると、見せしめと言わんばかりに彼の髪を掴み、壁に叩きつけた。
「う、うあ……っ、ごめんなさい……っ」
Jはいつものように、ボロボロと大粒の涙をこぼして謝る。
少し離れた場所で、Rは壁にもたれかかり気怠げにその光景を眺めていた。彼女は助けようとも怖がろうともしなかった。ただ、新しく来た人間が環境をかき回す様子を、無関心な目で見つめている。
夜になり、檻の中が深い闇に包まれた。
新入りの少年は、Jから奪ったボロ布を被り、満足げに高い鼾(いびき)をかき始める。
その時、Jの泣き声が止まった。
暗闇の中で、Jは音もなく立ち上がる。彼の青い瞳は、昼間の弱気な輝きを失い、生存本能だけを宿した冷たい硝子玉のようになっていた。
Jは、檻の隅に落ちていた、折れた鉄柵の破片を拾い上げる。
そして、迷いなく少年の枕元へ這い寄った。
「……あ……」
寝ている少年の首元に、Jは渾身の力で鉄片を突き立てた。
声も出せない。少年は一瞬だけ目を見開いたが、Jはその口を手で塞ぎ、体重をかけてさらに深く、深く鉄片を抉り込ませる。
何度か見た光景、Rはなんの訓練を受けたわけでもない、彼のプロ顔負けのその行為に天性の才を感じていた。
ぐちゅり、と肉を裂く嫌な音が響く。
少年の体は何度か大きく跳ねた後、だらりと弛緩した。
「……ふう、……ふう……っ」
Jは返り血を浴び、またすぐに涙を流し始めた。殺した直後から、彼は「泣き虫なJ」に戻るのだ。
「……。終わった?」
背後から、平坦な声がした。Rだった。
彼女は一部始終をずっと見ていた。Jが少年の喉を掻き切る瞬間も、血が噴き出す様子も、瞬き一つせずに観察していた。
「……R、ちゃん……ごめん、なさい……僕、僕……っ」
「明日には商人が片付けてくれるでしょ」
Rは立ち上がり、血の海に沈む少年の死体を跨いで、Jの隣に座った。彼女の倫理観には「殺人は悪」という回路が存在しない、生きるために必要な行為だとミシェに教えられた。
「……Rちゃん、怖くない、の?」
「何が? J、返り血。汚いから拭きなよ」
Rは自分の袖を差し出し、Jの顔についた血を無造作に拭ってやる。
Jはその優しさに、また別の涙を流した。
自分が「怪物」であることを、彼女だけは肯定もしないし否定もしない。ただ、そこに在るものとして扱ってくれる。
翌朝、奴隷商人が死体を見つけて騒ぎ立てる中、RとJは檻の隅で寄り添って眠っていた。
まるで、最初から二人しか存在しなかったかのように、平然とした顔をして。
奴隷商人にとって、その二人は「不良在庫」を通り越して「呪物」だった。
当初、RとJは別々の檻に入れられていた。
珍しい目の色をしたRはそこそこ良い環境に置かれていたのだ。
しかし、同じ檻にいれた人間はいつも動かなくなって倒れていた。Rは「朝ごはん、まだ?」とあくびをしていた。
一方、Jの檻では、彼を苛めた者が例外なく、寝静まった深夜に喉を正確に突かれて絶命していた。Jは死体の横で「怖いよ、誰か助けて」と泣きじゃくっていた。
商人は考えた。「化け物同士を一緒にしておけば、互いに殺し合うか、あるいは大人しくなるだろう」と。
だが、結果は真逆だった。
二人を一つの檻に入れた数日後、そこに「三人目」として放り込まれた体格の良い少年が、無惨な死体となって発見された。
「……またか。またこれかよ!」
商人は鉄格子を叩き、怒鳴り散らした。
檻の中では、Jが少年の返り血を浴びて「ごめんなさい、ごめんなさい」と咽び泣いている。その横でRはJとくっついていたせいで自分の髪に付いた血を面倒そうに指で払っていた。
二人は殺し合わなかった。それどころか、二人にとっての「邪魔者」を排除する効率が飛躍的に上がっただけだった。Jが生命危機を感じれば迷いなくその息の根を止める。あるいは、Rが自ら手を下す際、Jはそれを止めることもなく、ただ震えながらそれを見ていた。
「こいつらは人間じゃない。……いや、人間だが、中身が…」
商人は確信した。これはまともな人間に売れる代物ではない。
下手に売れば買い主が殺され、自分の首が飛ぶ。
そんな時、商人のもとに一人の女から連絡が入る。
人外と結婚しているという、傲慢な貴族の女だ。彼女は、夫である人外との生活を維持するための、使い捨ての「召使い」を探していた。
「ちょうどいい。あの『人外の嫁』なら、この化け物共を扱えるだろう。……いや、夫の人外に食われてしまっても構わない」
商人は厄介払いをするように、格安でRとJを女へ売り飛ばした。
鉄格子の外へ引きずり出される時、Rは「ここよりはマシなご飯が出るといいな」と楽観的に呟き、JはRの服の裾をぎゅっと握りしめて、泣きながら後に続いた。
人外日常 れれれつ @Retsu1143
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