視線
静かな夜だった。Wの屋敷の暖炉では薪が爆ぜ、心地よい熱を放っている。
Rは床に座り込み、Wの予備の大きなシャツを寝巻き代わりに纏って、古い羊皮紙の本をめくっていた。その右目にあるミシェの「赤い眼球」が、火の粉を反射して時折不気味に明滅する。
ふと、Rが顔を上げて、隣で書き物をしていたWを振り返った。
「……ねえ、W。昔、本で読んだんだけど」
「何だ」
「天使って、体にたくさん目があるって書いてあった。翼にも、腕にも、顔のあちこちにも。……でも、ミシェにもガブにもイズにも、二つしかないよね。まぁミシェは私に渡したのも含めたら三つだけど」
Rの淡々とした問いに、Wのペンが止まった。
彼は深く息を吐き、眼鏡を外して眉間を押さえた。それは、教えるには少し刺激が強すぎる「生態」の話だったからだ。
「……効率よくこの世界で活動するために、その貧弱な『人間』という形を模倣しているに過ぎない。俺だって角と尾を普段は消しているだろう。」
Wは椅子を回し、Rの目線に合わせるように少し屈んだ。
「あいつらのあの清廉な姿は本当の姿じゃない。本来の天使というのは、光と幾何学、そして無数の『視線』の集合体だ。理解の及ばない多次元の肉体を持っている。それは、アイツらの仕事が型落ちした人外…人間の監視だからだ。…だいたい本当に見てるだけなのが余計に気味悪いが」
Rは、自分の右目にそっと指を触れた。
「この目は沢山あるうちの一つってことかぁ」
「…ミシェがその気になれば、奴の体中にその赤い瞳が浮かび上がるはずだ。……想像してみろ、R。自分の娘だと言いながら、お前を全方位から、逃げ場のない数千の視線で人間を観察する奴の姿を。それが奴らの『本性』だ」
Wの言葉には、同じ人外であっても相容れない「天使(監視者)」という種族への根源的な忌避感が混じっていた。
人外(悪魔や龍)は欲望に忠実な肉体を持つが、天使は「独自の秩序」という狂気を形にしたような存在だ。
「……怖いの? W」
「怖いというより、不気味だ。皮を一枚剥げば、そこにあるのは血肉ではなく、光り輝く『目』の行列だからな」
Rは想像してみた。
自分を育てたあの冷徹な聖職者が、もしも突然、その端正な顔や指先、翼の裏側にびっしりと目を開いたら。
……けれど、Rは怖がる代わりに、少しだけ口角を上げた。
「……それなら、私がどこに隠れても、どんな姿になってもミシェはずっと私のことを見つけられるね。
人間は皆、孤独に消えなくていいんだ。」
その歪んだ肯定に、Wは言葉を失った。ミシェが彼女に教え込んだ「愛」と「依存」の形が、いかに深く、そして天使という人外の倫理に基づいているかを改めて突きつけられたからだ。
「お前も大概だな、R。……さあ、もう寝ろ。明日はガブが来る。あいつの顔が二つ以上に増えていないか、あまりじろじろ見るんじゃないぞ」
「はーい」
Rは欠伸をしながら、Wの膝に頭を預けて目を閉じた。
「ここで寝るなよ」
彼女の右目――ミシェから贈られた「視線」は、瞼を閉じてもなお、何処か遠くにいる主へと、彼女の安らかな寝顔を送り続けているのかもしれない。
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