Jと人間マラソン大会
どうして、僕はここに立っているんだろう。
目の前には、どこまでも続くかのような長い舗装道路。ゼッケン「082」と書かれた重い布が、僕の細い胸を締め付けている。
数日前、L様がキラキラした笑顔でこう言ったんだ。
「Jちゃん、最近元気が足りないみたいだから、運動不足解消にぴったりのイベントを見つけておいたよ!」
それが、この『第一回・人間オンリー! 命がけの限界マラソン大会』だった。
ルールは簡単。最後まで走り抜ければ、主人の名誉。リタイアすれば――その後のことは考えたくもない。
「はぁ……はぁ……、もう帰りたい……」
スタートラインに並ぶ他の「人間」たちは、みんな絶望的な顔をしていた。ある者は震え、ある者は虚空を見つめている。そんな中、僕は見覚えのある、気怠げな影を見つけた。
「……あ、Rちゃん?」
人混みの端に、見覚えのある服を纏った彼女が立っていた。
けれど、おかしい。彼女の胸にはゼッケンがないし、その隣にいるはずの「過保護な二人の影」も見当たらなかった。
「……あ、J。ドレス辞めたんだね、似合ってたのに。」
Rちゃんは僕の絶望的な姿を一瞥して、感情の起伏がない声で言った。
「似合ってないよ……。それより、WさんとSさんは? 二人が君のそばにいないの、珍しいね」
僕が尋ねると、Rちゃんは少しだけ面倒くさそうに首を振った。
「……Sなら、今、本部に文句を言いに行ってる。私もこのマラソンに出場させろって」
「えっ、Rちゃんも走る予定だったの?」
「ううん。私は別に走りたくない。でも、Sが『僕のRが人間枠から外されるなんて納得いかない! 彼女の純度はダイヤモンドより高いんだ!』って発狂し始めて……。今、そんなモンスターペアレンツなSを止めるために、Wが行った」
……目に浮かぶようだ。
叫びながら運営に詰め寄るSさんと、胃を押さえながら彼を引きずっていくWさんの姿が。やっぱりSさんは怖い。
「あはは……。Wさん、本当にお疲れ様だね……」
「私も普通に恥ずかしいから帰りたいけどね」
Rちゃんはそう言うと、パンパンに膨らんだポケットからクッキーを一つ取り出して口に放り込んだ。そして、これから地獄を走る僕に、他人事のような視線を向けた。
「……J。頑張ってね。完走したら、死なないと思う。Lのことだし殺すなんてことはされないよ。今回もどうせ善意からのことでしょ」
「死なないと思う」って、そんな。
せめて「死なないでね」って言ってほしかった。
「……じゃあ、私、あっちに行くから。」
Rちゃんはひらりと手を振ると、貴族や高位の人外たちが集まる豪華な観客席(特別VIP席)へと向かっていった。
ふかふかのクッションと、冷えた飲み物と、最高の見晴らしが用意された場所。
僕が今から泥水を啜りながら走るコースを、彼女は上から眺めるだけだ。
しかし、Sの元へ帰りたいかと言われればそうではなかった。Sのようなじっとりとして何を考えてるか分からない人の方が、考えすぎてしまうJには怪我をさせられるより恐怖の対象となった。
その時、残酷な号砲が鳴り響いた。
僕は震える足で、一歩を踏み出す。
はるか上方の、快適な特等席にいる彼女に、僕の悲鳴は届くだろうか。
――Jの「命がけのマラソン」が、今、始まった。
肺が焼けるように熱い。喉の奥からは鉄の味がする。
視界がチカチカと点滅する中、僕は最後の一歩を力なく踏み出し、ゴールラインを越えた。
「はぁ……っ、はぁ……、……っ、……死ぬかと思った……」
その場に崩れ落ちた僕の横を、リタイアして人外の衛兵に「処理」されていく他の人間たちが通り過ぎていく。悲惨な光景だがここでは日常とも言える。自分は愛されているだけで幸福な方なのだ。
不思議だった。
L様の屋敷に来てからは、毎日掃除と洗濯、そしてG様の「毒味」で体力を削られる日々だったけれど、いざこういう極限状態になると、僕の体が勝手に「生き残るためのリズム」を刻み始めた。
……奴隷として売られていた頃。重い石を運び、休む間もなく鞭で打たれながら走り続けた、あの地獄のような日々。あの時に無理やり鍛え上げられた呪わしいほどの体力が、よもやこんなところで僕の命を繋ぐことになろうとは。
「やったね、おめでとう。J、生きてる」
頭上から、パサリと影が落ちた。
見上げると、そこにはいつの間にかVIP席から降りてきたRちゃんが立っていた。彼女は泥まみれの僕を見て、微笑みながら僕を見下ろしている。
「あ、はは……Rちゃん。……完走、したよ」
「うん。見てた。……途中ガクガクしてたけど、最後は早かった。」
彼女の言葉は相変わらず容赦がない。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。彼女もまた、普段から地獄を生き抜いてここにいる一人だから。
「……これ、あげる。完走したご褒美」
Rちゃんが差し出してきたのは、さっきまで彼女がVIP席で飲んでいたであろう、よく冷えた水。……と、なぜか「牛の干し肉」の大きな塊だった。
「これ、Wの。……内緒で持ってきた」
「……っ、ありがとう……」
僕は震える手でその水を受け取り、一気に飲み干した。喉を潤す冷たさが、生きている実感を呼び覚ましていく。
ふと見ると、会場の端で、ようやくSさんを引き剥がしたWさんが、こちらに気づいて手を振っていた。
「Jちゃん、完走したんだねぇ。おめでとう!良い運動になったでしょ!」
いつの間にか僕の背後に現れたL様が、満足げにパチパチと拍手をする。
「ご褒美に明日はお休みにしてあげる。グラ姉さんの新作料理の試食会、Rちゃんも呼んでパーティーにしようか!」
「……っ、休ませて……ください……」
僕は干し肉を握りしめたまま、再び地面に伏した。
奴隷時代の体力が役に立ったのは嬉しいけれど、できれば二度と、こんな形では発揮したくない。
「……J。肉、食べないなら、私が食べるよ?」
Rちゃんの静かな声に、僕は慌てて肉を口に放り込んだ。
泥と汗の味がしたけれど、それは確かに、僕が自力で掴み取った「生」の味だった。
後日、散歩と称してマラソンを走れなかったRのためにSが無理やりRが倒れるまで引きずって走ったのは別の話。
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