Pとグラ
Wの屋敷のリビング。
私は今、非常に動きにくい状態にあった。
「……P。重いし、邪魔」
私が不機嫌そうに言うと、背後からしがみついているPが、さらに強く私の肩を掴んだ。
「黙れR! 動くな! 貴様は今、王を守る城壁としての名誉ある役割を与えられているのだ!」
Pは私の背中に完全に隠れるように身を縮め、ガタガタと震えている。
普段の「俺こそが最強」という態度はどこへやら。今の彼は、捕食者を前にした小動物そのものだった。
その原因は、ソファの向かい側に座っている、一人の女性だ。
「あらあら〜。Pちゃんったら、そんなに怖がらなくてもいいのにぃ」
ゆったりとお茶を飲んでいるのは、Lの姉である悪魔のグラ。
彼女は、お母さんのように優しく、とろけるような甘い微笑みを浮かべている。
だが、Pはその笑顔を見るだけで、かつて右腕を腹の口で噛み砕かれた激痛と咀嚼音を思い出してしまうらしい。彼は私の背中を盾にして、決してグラと目を合わせようとしなかった。
「……ねえ、グラちゃん」
私はPを背負ったまま、グラに話しかけた。グラちゃんというのは本人からそう呼んでほしいと要望があった。
「ん〜? なぁに、Rちゃん?」
グラが首を傾げる。その仕草に合わせて、豊満な胸が揺れ、その下にある腹部――かつてPを食らった場所――が服の上から微かに波打ったように見えた。
グラは人でいうヘソのあたりにも口がありそっちが本来はメインなのだとLから聞いたことがあった。
「Pが言ってたんだけど、昔、グラちゃんに腕を食べられたって」
「やめろR! その話をするな!!」
Pが私の耳元で悲鳴を上げるが、私は無視した。
「グラちゃん。Pのこと、また食べたいの?」
直球の質問。
Pの全身が硬直した。彼は息を止め、グラの返答を待つ死刑囚のような心境で、私の背中に額を押し付けている。
グラはカップを置き、人差し指を唇に当てて「うーん」と考え込んだ。
その数秒の沈黙が、Pにとっては永遠のように感じられただろう。
やがて、グラは困ったように笑って、手をひらひらと振った。
「ううん、もういいわよぉ〜」
「……え?」
Pの口から、間の抜けた声が漏れた。
「だってねぇ、Pちゃんのお肉……思ったより美味しくなかったの」
グラは、まるで期待外れのレストランの感想を言うように、あっけらかんと言い放った。
「見た目は歯ごたえがありそうだったんだけどぉ……なんていうか、筋(すじ)ばかりで硬いし、妙に泥臭い味がしたのよねぇ。プライドが高い味がして、胃もたれしちゃったわ」
グラは「テヘッ」と舌を出した。
「だから、もう食べないわよ〜。安心してね、Pちゃん」
リビングに、奇妙な静寂が流れた。
私は「ふーん」と納得した。
Pは――恐怖から解放された安堵と、食材としての評価を酷評された王としての屈辱の間で、感情が迷子になっていた。
「き、貴様……! 俺の肉体は至高だぞ! 泥臭いだと……!?」
Pは私の背中から顔だけ出して、震える声で反論した。しかし、グラが「あら、じゃあもう一度味見してみる?」と腹部を指さすと彼は「ヒッ!」と再び私の背中に引っ込んだ。
「……だそうだよ、P。よかったね、不味くて」
私は背中のPに声をかけた。
「う、うるさい! 不味いのではない、味が高尚すぎてあの女の舌に合わなかっただけだ!」
Pはそう強がったが、私から離れようとはしない。
グラはそんな私たちを見て、「ふふふ、仲良しねぇ」と微笑ましそうにお茶を啜った。
その腹の下にある口が、今は満腹で眠っていることを祈りながら、Pは今日も私の後ろで小さくなっているのだった。
Pがグラの不味い料理レビューに傷つき、Wに宥められている隙に、私はグラと二人きりになる機会を作った。
ソファに座り直したグラは、ゆったりと足を組み、紅茶を飲んでいる。その姿は、まるで教会の慈善家のように上品で、とても同じく人外を食らった悪魔には見えない。
「ねぇ、グラちゃん」
「なあに、Rちゃん?」
私は、さっきのPの味の評価について、もう一度尋ねた。
「さっき、Pの肉が『美味しくなかった』って言ってたけど、あれ、本当は何でPのこと齧ったの?」
私の問いに、グラはすぐに答えず、「うーん」と少し首を傾げた。その仕草は、まるで何かのレシピを思い出そうとしているかのようだ。
「そうねぇ……」
グラは、普段から目元を覆っているアイマスクに指をかけた。
「Rちゃんのいう通り、食べるだけだったらもっと美味しい獲物なんていくらでもいたのよ。Pちゃんは、傲慢すぎて、ちょっと食材としては硬すぎたしねぇ」
そして、グラはゆっくりと、そのアイマスクを外した。
アイマスクの下から現れたのは、美しくも異常な両目だった。
水色の虹彩。しかし、その瞳には、光を反射するはずのハイライトが全く入っていなかった。まるで水色の宝石のようでありながら、その奥には何も映していない、無機質さ感じた。
グラは、その無感情な水色の瞳で私を見つめ、微笑んだ。
「別に大した理由はないのよ、Rちゃん」
その口調は、いつものおっとりした優しさとは異なり、どこか冷たく、淡々としていた。
「ただ……Pちゃんって、いっつも威張り散らしていて、強くて、誰も自分を傷つけられないって思い込んでいるでしょう?」
グラは、心底楽しそうに、少しだけ声を弾ませた。
「だから、ちょっと泣かせてやろうと思って♡」
にっこりとした笑顔。
それは、ただの気まぐれな悪意だった。
最強だと思い込んでいる相手を、自身の本質的な弱さ(食物として消費される恐怖)に直面させ、屈辱で泣かせる。それこそが、あの瞬間のみの刹那のグラの退屈しのぎであり、彼女にとっての至高の喜びだったのだ。
私は、グラのハイライトのない瞳をじっと見つめた。そこには、罪悪感も、後悔も、懺悔も、愛も、一切の人間的な感情が存在しなかった。
「……あーあ」
私は深く、深い溜息をついた。
(Wはすぐに怒るし、Sは無関心と言う名の怠惰だし、Pは傲慢だし、Lは無自覚に愛情深いし。)
グラ。彼女は、他者の苦痛を純粋な娯楽として消費する、文字通りの悪魔だ。
(結局、人外ってこんなやつばっかだな)
「Rちゃんも、退屈なら試してみたら? 誰かを泣かせるのって、案外楽しいものよぉ」
グラは楽しそうに誘うが、私は興味なさそうに首を振った。
「やだ。誰かを泣かせるのって、エネルギー使うじゃん。面倒くさい」
イタズラこそすれど、私には好んで人を泣かせる趣味はなかった。
グラは少しつまらなそうな顔をした。
「あら、残念。Rちゃんには、もっと悪魔的な才能があると思ったのにぃ」
「これでも育ての親は天使サマだからね」
「でもミシェでしょう?あの中でまともな感性を持ってるのなんてイズの1人だけよ。」
グラは笑いながら再びアイマスクを着用し、水色の無機質な瞳を隠した。普段のおっとりとしたグラに戻ったその姿を見ても、私はもう騙されない。
私はソファに深く沈み込み、心の中で思った。
(私の最大の防御力は、彼らの誰よりも感情が薄く、無関心であることだ)
私には、彼らの誰もが持つ「強すぎる感情」がない。だからこそ、私は彼らの間で、最も快適で、最も安全な場所を見つけて、生き残っていけるのだ。
私はすぐに、グラの恐ろしさよりも、今日の夕飯のメニューを考えることに意識を切り替えた。
Wの作るハンバーグが一番だ。それが、今の私にとって最も重要な真実なのだから。
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