池の鯉
Wの屋敷にはWの趣味なのか、それとも兄のPから押し付けられたものなのかは知らないけれど、とにかく無駄に広くて、真ん中には大きな池がある。
私は最近、ここがお気に入りだ。
「……ほら、食え」
私が持っていた麩(ふ)をちぎって投げ入れると、静かだった水面が瞬時に沸騰したように泡立った。
極彩色の鯉たちが、我先にと重なり合い、口をパクパクさせながら群がってくる。その必死さと、知性の欠片もない動きがたまらない。
「R、お前まだそこにいたのか」
背後から呆れを含んだ声が聞こえる。
振り返らなくてもわかる、Wだ。彼は夕食の支度を終えたのか、エプロンを外しながらこちらに歩いてくる。
「もう日が暮れるぞ。止めなきゃ一日中見てるつもりか?」
「うん。見ていられる」
「何がそんなに面白いんだか……。ただの鯉だろ」
Wは私の隣に立つと、池の中で蠢く魚の塊を見下ろして顔をしかめた。
色鮮やかな錦鯉も、こうして何十匹も重なり合うと、ただの生々しい肉の塊にしか見えない。
「この、バカみたいに集まってくるのがいいんだよ」
私は池の縁に座り込んだまま、指差して笑う。
「餌があると思ったら、周りも見ずに突っ込んでくる。下敷きになってる奴もいるのに、それでも口だけ動かして。この浅ましさが最高に可愛い」
かつて私がいた孤児院や、奴隷商人の檻の中でも、食料の時間は似たようなものだった。
けれど今は、私は安全な場所から、ただの娯楽としてこの「生存競争」を見下ろしていられる。この圧倒的な余裕が心地いい。
「性格歪んでるなぁ、お前」
「これミシェの感想ね」
「あー…今の俺の発言あいつに言うなよ?」
Wは深くため息をつき、「風邪引くぞ」と言いながら自分の上着を私の肩にバサッとかけた。乱暴だが、生地には体温が残っていて暖かい。
その時、私の影からにゅるりと黒い何かが湧き上がった。
「R、また魚見てるの? 俺の相手より魚の方が優先なわけ〜?」
Sだ。彼は不満げに頬を膨らませると、私の背中にのしかかるように抱きついてきた。牛のような細い尾が、私の太ももにペシペシと当たる。
「S、重い。魚が逃げる」
「逃げればいいじゃん。いっそ俺が全部食べてあげようか。」
「そこまでお腹減ってるの?」
「俺の飼ってる鯉なんだが」
Sの身体がスライム状に変化し、池に向かって触手を伸ばそうとするので、私は手で払い除けた。
Sは何も言わず、ただ不満そうに私の首筋に顔を埋める。
私はSを押しのけるのも面倒なのでそのままにして、残りの麩を全て池にぶちまけた。
バシャバシャバシャ! と水音が一層激しくなる。
大量の餌に狂喜乱舞し、水面から押し出された鯉が陸に上がりかけ、それでも体をくねらせて餌を求める。
「あはは、すごいすごい。気持ち悪い」
私はその光景に満足して、小さく笑った。
「……はぁ。ほら、飯にするぞ。今日はRの好きなハンバーグだ」
「ん、食べる」
Wの言葉に、私はようやく腰を上げる。
池の中では、まだ鯉たちが消えた餌の残像を追って口をパクパクさせていた。
その愚かさを愛おしく思いながら、私はWとSと共に、温かい食事の待つ屋敷の中へと戻っていった。
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