第3 再会
その日、ミシェがWの屋敷を訪れたのは、純粋に「仕事」のためだった。
天使族の長の一人として、境界線の管理に関する書類にWの署名が必要だったのだ。聖職者の服を纏い、グレーの髪を一つにまとめたミシェは、いつも通りの静かな足取りで廊下を歩いていた。
Wの屋敷は、いつも龍の主らしく静謐なはずなのだが、今日はどこか騒がしい。
応接間の扉を開けた瞬間、ミシェの視界に飛び込んできたのは、ソファに寝そべる見覚えのある紫の髪だった。
「――あ、ミシェ?」
気怠げな声。
ミシェは石のように固まった。
そこにいたのは、数年前に「好きに生きろ」と突き放したはずの、自分の最高傑作。
「……R、か。何故…」
ミシェの声が低く響く。彼はあの日以来、Rの行方を追っていなかった。干渉すれば、彼女が「自分の足で歩く」邪魔になると考えたからだ。だが、再会したRの姿は、ミシェの記憶にあるものとは決定的に異なっていた。それは数年経ち身長が伸びた、など体の成長を表すものではない。
彼女の頭頂部。紫の髪の間から、場違いな二本の、小さく歪な「角」が生えている。
「……R。その頭のゴミは何だ」
ミシェの瞳の奥に、凍てつくような冷徹な光が宿った。
彼は一歩、また一歩とRに歩み寄る。その背後から、不定形の影――Sがヌルリと姿を現した。
「ゴミとは失礼だなあ、ミシェ。それは俺がRにあげたプレゼントだよ。というか、何でこの子の名前を知ってるのかな?」
「……Sか」
ミシェはSを一瞥したが、すぐに視線をRの角に戻した。
人外の倫理観を叩き込んだのは自分だ。だが、それは彼女が「人間として」強く生きるための武装であって、安っぽい人外の真似事をさせるためではない。
「S。お前、僕がこの娘に施した『調整』を理解して触ったのか?」
「さあ? ただ、この子が可愛かったから、俺の一部を植えただけだよ。おかげでRは俺のものになった。外見だけでも人外の仲間入りだ。ねえ、R?」
SがRの肩に手を置く。その瞬間、部屋の温度が数度下がった。
ミシェの手が、いつのまにか空中に現れた光の剣の柄にかけられる。
「……僕が、どれほどの手間をかけて彼女を『完成』させたと思っている。それを、こんな不純物で汚すとは」
「ミシェ、怒ってる?」
Rが不思議そうに首を傾げた。右目の赤い瞳――ミシェが与えた半身が、本物であるミシェを見つめ返す。
「……怒ってはいない。ただ、不愉快なだけだ」
ミシェは無理やり感情を押し殺す。
「いいか、R。お前は人間だ。僕がそう育てた。こんな角が生えたところで、お前の治癒能力が上がるわけでも……なぜ、拒まなかった」
「えー。だって、Sが勝手に移植したし…ミシェの時とそんなに変わらないよ。痛かったけど、別にどっちでも、なんでもよかったから」
Rの楽観的な回答に、ミシェは深く溜息をついた。
教育が成功しすぎたのだ。彼女はもはや、自分の身に何が起きても「気にしない」ほどの虚無を抱えている。
そこへ、騒ぎを聞きつけたWが駆け込んできた。
「ミシェ!? おい、うちの客(S)に剣を向けるのはやめてくれ!」
「W。……この人間がここにいる経緯を、後で詳しく聞かせてもらおうか」
ミシェは剣から手を離したが、その威圧感は消えない。
SとWは、ミシェがなぜこれほどまでにRに執着するのか分からない、そもそも何故2人が知り合いなのかすら知らないため困惑した表情を浮かべている。彼らにとってRは「珍しい人間」でしかないからだ。
「……ミシェ、用事があったんじゃないの?」
Rが空気を読まずに尋ねる。
「……終わらせてくる。終わったら、少し話をしよう。お前のその、脆弱な体のメンテナンスも兼ねてな」
ミシェはSを射殺さんばかりの目で見据えた後、背を向けてWの書斎へと歩き出した。
その背中は、かつての育ての親としての怒りと、自分の預かり知らぬところで「改造」されてしまった娘への、やり場のない怒りに満ちていた。
「……ミシェ、相変わらず怖いなぁ」
Rはそう呟いて、再びクッキーを口に運んだ。自分の右目と、ミシェの目が同じ色であることなど、今の彼女にはどうでもいいことだった。
嵐のようなミシェが立ち去り、ようやく屋敷に静寂が戻ってきた。
だが、残された人外たちの混乱は収まっていない。あの、冷酷で知られる「天使族のミシェ」が、たかが一人の人間にあそこまで感情を剥き出しにしたのだ。
ソファの背もたれから溶け出すようにして、SがRの顔を覗き込んだ。
「……ねえ、R。今の、どういう知り合い? あんなに怒ったミシェ、初めて見たよ」
Wも、壊れた扉の建付けを確認しながら振り返る。
「俺も驚いた。彼は事務的な用事以外で他人に興味を示す男じゃない。お前、ミシェの何か弱みでも握っているのか?」
Rは、ミシェが置いていった(あるいは無理やり置いていかれた)高級な輸入菓子の袋を開けながら、もぐもぐと口を動かした。
質問の意味を噛み砕くように、視線を斜め上に泳がせる。
「……うーん。関係、ね。……お兄ちゃん? お父さん? ……みたいな」
その曖昧な回答に、SとWは同時に固まった。
「……父?」
Wが信じられないといった様子で声を裏返らせる。
「あの、慈悲の欠片もない天使が、人間の父親代わりをしていたって言うのか? 冗談だろ」
「本当だよ。孤児院に入ってすぐに子供の中で最年長のミシェが最年少の私の世話役にあてがわれたの。食べ物の奪い方とか、痛いのを我慢する方法とか、いろいろ教えてくれた」
Rは、ミシェから教わった「略奪の倫理」を思い出しながら淡々と語る。人外たちから見れば、それは「教育」という名の「英才教育」に聞こえた。
「じゃあ、さっきミシェが言ってた『調整』っていうのは……」
Sが、Rの右目をじっと見つめる。
「これのこと? これは、孤児院を出る時にミシェがくれたの。……あ。でも、ミシェの目だってことは秘密だったっけ。ま、いっか」
Rがさらりと告げた真実に、屋敷の空気が凍りついた。
最強格の一人であるミシェが、自分の身体の一部を人間に譲渡した。それがどれほどの意味を持つか、人外である彼らには痛いほど理解できた。それは単なる寵愛ではない。自身の権能の一部を分け与え、魂を共有するに等しい行為だ。
「……なるほど。俺が植えた角に彼が本気で殺意を向けた理由がわかったよ。でも、ははは、ほんとに笑えるね、あいつに愛着なんてあるんだ。」
Sが楽しそうに笑う。
「彼は、君を自分だけの『作品』にしておきたかったんだね。それを俺が横から汚しちゃったわけだ。」
「汚すとか、よくわかんないけど。……あ、W、このお菓子美味しいよ。食べる?」
Rはクッキーを差し出した。
「……食えるか。……というかR、お前。あんな化け物に育てられて、よくそれだけで済んだな」
Wは、Rの「倫理観の欠如」や「気怠げな楽観主義」の根源が、すべてあの聖職者の服を着た天使にあるのだと悟り、深い同情を禁じ得なかった。
「化け物って言ったら、ミシェ怒るよ。けっこう気にしてるから」
Rは再びお菓子に集中し始めた。
彼女にとって、ミシェは親であり、師であり、自分の一部を構成する要素だ。けれど、今はSの角があり、Wの世話を受けている。
その中途半端な居心地の良さが、Rにはちょうど良かった。
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