第8話:古き源泉の咆哮
「約束だ。汚ねえ宿だが、好きなだけ浸かっていってくれ。……今から急いで浴場を洗い流して、一番湯を張り直す。それまで、二階の部屋で休んでいてくれ」
主人はそう告げると、ゼウスを二階の角部屋へと案内した。 そこは、かつては海を一望できたであろう広めの和室だった。畳は古く、障子紙は温泉の湿気でわずかに波打っているが、隅々まで掃除は行き届いている。
ゼウスは一人、窓際の広縁にある椅子に深く腰を下ろした。 窓を開けると、夕刻の冷ややかな空気が流れ込む。街のあちこちから立ち上る湯煙を眺めれば、そこには加工された後でもなお、この土地が本来持つ微弱な魔力が揺らめいているのが見て取れた。だが、ゼウスが求める密度には程遠い。
(……やはり、この宿に流れるものだけだ。この土地本来の、純粋な力を宿しているのは)
この世界の住人はおろか、街を支配する羽柴でさえ、自分たちが管理する湯から「真の価値」が失われていることに気づいていない。
しばらくすると、階下から激しい水の音と、石を擦るような硬い音が聞こえてきた。主人が、長年溜まっていた濁り湯を抜き、復活したばかりの熱い源泉を使って必死に浴槽を磨き上げているのだ。
それから一時間ほど経っただろうか。 空が深い藍色に染まりきった頃、階下からどこか晴れ晴れとした主人の声が響いた。
「お客さん、湯が溜まった。……一番湯だ、入ってくれ」
ゼウスが階下の浴場へ向かうと、そこには時間が止まったような空間があった。 主人が磨き上げた石造りの湯船。そこには、先ほどゼウスが地中で「通り」を良くしたばかりの透明な源泉が惜しげもなく溢れ、床の石を熱い膜となって覆っている。
ゼウスは一人、湯煙の中に身を投じた。
「……ほう」
湯に指先が触れた瞬間、心地よい刺激が神経を走った。 街に漂う微弱な気配とは比較にならない、圧倒的な密度の力がゼウスを包み込んでいる。最新のホテルで供給されている「管理された湯」は、牙を抜かれた家畜のようなものだ。しかし、この観海閣の湯は違う。大地のエネルギーをそのまま宿した、静かで高密度の力が渦巻いている。
肩まで浸かると、凝り固まっていたわけでもない身体が、不思議と解き放たれていく感覚があった。この世界の誰も知らぬ未知の力が毛穴の一つひとつから染み込んでくる。それはゼウスの体内にある強大すぎる力と共鳴し、静かな、しかし確かな旋律を奏でた。
(……悪くない。いや、期待以上だ)
ゼウスは目を閉じ、湯船の縁に頭を預けた。 しばらくして、脱衣所から主人の遠慮がちな声が響いた。
「お客さん。風呂上がりに、大したもんはねえが『地獄蒸し』を用意した。上がったら広間に来てくれ。酒も一本、つけておくからよ」
ゼウスは答えず、ただ静かに口角を上げた。
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