第9話:地獄の滋味
湯から上がり、用意された浴衣を無造作に羽織ったゼウスは、主人の待つ広間へと向かった。 広い畳敷きの空間には、中心に大きな木製の蒸し器――「地獄釜」から引き上げられたばかりの竹籠が置かれている。
ゼウスの姿を見るなり、主人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「……お客さん、さっきは酒をつけるなんて言っちまったが、すまねえ。よく見りゃ、あんたはまだ若ぇ。そんな若者に無理やり酒を勧めたなんて知られちゃ、うちの先代に合わせる顔がねえからな」
主人はそう言うと、一升瓶の代わりに、よく冷えたラムネの瓶をゼウスの前に置いた。
「酒の代わりに、これで勘弁してくれ。鉄輪名物だ。……うちの源泉と同じで、昔から変わらねえ味だよ」
主人の態度は、もはや単なる「客」へのそれではない。自分の宿を救った不可解な貴公子に対する、彼なりの誠実なもてなしだった。
ゼウスは黙って席に着くと、まずは真っ白な湯気を吐く卵を一つ、手に取った。 殻を剥けば、温泉成分によってわずかに茶色く色づいた白身が現れる。それを口に運んだ瞬間、ゼウスの眉がわずかに動いた。
(……ほう。魔界のように魔力があふれている場所とは、また違う『力』の乗り方をしているのか)
調味料など必要なかった。 源泉の成分と共に食材の芯まで浸透した未知の力は、素材本来の味を暴力的なまでに引き出し、ゼウスの舌の上で濃厚な旨味となって爆発した。それは、洗練された宮廷料理では決して味わえない、大地そのものを喰らっているかのような野性的な充足感だった。
「……美味いか?」
主人が、恐る恐る尋ねる。 ゼウスは冷えたラムネの喉越しを楽しみ、ビー玉の鳴る音を耳にしながら、静かに言葉を返した。
「悪くない。最新の設備を誇るホテルとやらでは、逆立ちしてもこの味は出せまい」
その言葉に、主人の強張っていた肩が目に見えて緩んだ。
「当たり前だ。あいつら……羽柴の連中は、効率を求めて配管を長く引き回し、温度調整のために加水までしやがる。そんな『死んだ湯』の蒸気で蒸したもんが、うちの源泉に適うはずがねえ」
主人の言葉には、職人としての誇りが混ざり合っていた。
「……羽柴、か」
ゼウスは二つ目の卵に手を伸ばしながら、その名を反芻した。 この街の住人は誰も、自分たちが本当は何を失っているのかを知らない。だが、目の前の老主人のように、感覚的に「本物」と「偽物」の差を感じ取っている者は少なからず存在するはずだ。
「主人。この宿の源泉が戻ったことを、羽柴が知ればどうなる」
ゼウスの問いに、主人の手が止まった。
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