第7話:対価としての宿

街の喧騒を背に、ゼウスは緩やかに湾曲する急坂を上りきった。 視界が開けた先、高台の端に佇んでいたのは、潮風と硫黄の煙に晒され、外壁のあちこちが剥げ落ちた古い二階建ての木造宿「観海閣」だった。

軒先には「観海閣」と記された、自重に耐えかねてわずかに傾いた木製の看板が掲げられている。

(……ここか。周囲の近代的な宿泊施設とは、配管を流れる魔力の密度が明らかに違うな)

ゼウスは視覚に頼らず、その場所のエネルギー分布を把握する。 独自の源泉から引かれた古い配管には、細く、しかし混じりけのない高密度な魔力が辛うじて流れ込んでいた。

建物の脇に回ると、そこには一人の老人がいた。 使い古された作業着に身を包み、膝をついて、地中から突き出た複雑に絡み合う太い鉄管と格闘している。闇雲に管を叩き、錆び付いたバルブを回そうとしては、漏れ出す熱い蒸気に毒突いている。その表情には、長年守ってきたものを失いつつある者の、焦りと諦念が混じり合っていた。

ゼウスは足音を立てずにその背後に立ち、静かな声で告げた。 「そこをいくら叩いても、湯は戻りませんよ。……詰まっているのは、そこから二メートルほど下の、三叉に分かれた分岐点だ」

老人の動きが止まった。 レンチを握ったまま振り返った老人は、まず、その場にそぐわないほど整った若者の顔を凝視した。続けて視線を落とし、埃にまみれた自分とは対照的な、汚れ一つない服装を見て呆然と呟いた。

「……誰だ、あんた。どこから入り込んだ」

ゼウスは表情を崩さず、静かに視線を配管から老人の瞳へと移した。 「ただの観光客ですよ。この宿には、街の集中管理に頼らない、昔ながらの『源泉掛け流し』の素晴らしい湯があると聞きましてね。……だが、どうやらその自慢の湯は、出口を見失っているようだ」

老人の顔が、屈辱で歪んだ。「見ての通りだ。さっさと表通りのホテルにでも泊まりな」

「あのような均一な湯には興味がない。私は、この宿にしかない、源泉そのままの湯に浸かりたいだけだ。……主、そこを叩いても無駄だ。分岐点の詰まりを取り除かない限り、いくらバルブを回しても湯は戻らない」

「ハッ……素人が。いいか。あそこを直すには表を全部掘り返して、専門の業者を呼んで……そんな金も時間も、今のうちにはねえんだよ」

老人は膝の土を払うことも忘れ、這いつくばった姿勢のまま、絶望の色を浮かべてゼウスを見上げた。

ゼウスは、老人のその嘆きを風のように聞き流した。 彼は無造作に、老人が先ほどまで叩いていた、地中へ伸びる太い鉄管の上に手を置いた。

「大掛かりな工事など必要ない。ただ、正しい場所に正しい刺激を加えればいい。……主、少しの間、そこを離れていろ」

「おい、何を……!」

老人が制止する間もなかった。 ゼウスの手のひらから、老人の目には見えない微細な振動が鉄管を伝って地中深くへと突き抜けた。それは特定の「淀み」だけを狙い撃ちし、凝固した堆積物を一瞬で粉砕する。

直後。

ゴッ……ゴゴゴゴォッ!

地底の底から、何かが激しく胎動するような低い唸りが響いた。 配管全体が生き物のように震える。老人が慌てて飛びのくと、次の瞬間、バルブの隙間から真っ白な蒸気が噴き出した。

「な……っ!? 出た、のか……?」

老人が震える手で近くの点検用蛇口を捻ると、そこからは熱量を孕んだ、透き通った源泉が勢いよく溢れ出した。

ゼウスは涼しい顔で手を離し、手元に魔力で生じさせたハンドタオルで、指先に付いたわずかな錆を拭った。

「言ったはずだ。私は、この宿の湯に浸かりに来たと。礼には及びません。……ですが、実は今、持ち合わせがない。素晴らしい源泉だという噂を聞いて見に来ただけなので、今日はこれで失礼する。また来るとしましょう」

ゼウスが踵を返そうとすると、老人が悲鳴に近い声を上げた。

「ま、待て! 待ってくれ! 金なんていい。部屋ならいくらでも余ってるし、飯ぐらいは食わせてやる。だから、せめて一晩だけでも泊まっていってくれ。なあ、頼む!」

ゼウスは足を止め、背中で老人の懇願を聞いた。その口元には、人には見せぬ微かな笑みが浮かんでいた。

(……容易いものだ)

すべては目論見通り。宿を拠点とするための口実と、向こうから縋り付いてくる「貸し」。それらはこの老爺の手によって、完璧な形で整えられた。

ゼウスはゆっくりと振り返り、まだ震えている老人の目を真っ直ぐに見据えた。

「そこまで言うのであれば、無下に断るのも無作法ですね。……よろしい、一晩お世話になるとしましょう。主人」

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