第5話:湯煙の街と偽装の法

一歩、また一歩と山を下るごとに、空気の密度が変わっていくのをゼウスは肌で感じていた。魔力は相変わらず微弱だが、代わりに鼻腔を突くのは、微かな硫黄の匂い。そして、陽光の下に眼下に広がる、整然とした街並みだった。

(情報の密度が高い。建物や動く車両、至る所にある電子看板。文明レベルは前世の記憶にある現代に近い。だが、この独特の匂いは……)

舗装の剥げたアスファルトの道を辿っていくと、やがて視界が開けた。そこにあったのは、いくつもの細い煙が青空へと立ち上る奇妙な街の風景だった。工場地帯の排煙ではない。それは地面の熱が呼び起こす、白く濃い湯煙だ。

道の脇に立つ、錆びついた交通標識が日の光に照らされている。ゼウスはその前で足を止め、文字を読み取った。

「……鉄輪、か」

その名に、微かな既視感が走る。さらにその下、市街地を指し示す大きな看板には、決定的な地名が刻まれていた。

「……別府市。やはり、ここは日本……別府なのか」

あの屋敷で目にした、二〇〇〇年の日付が刻まれた古びた新聞の内容が脳裏で合致する。別府湾、大分、その独特の湯煙。しかし、眼前に広がる光景は、彼が知る前世の記憶とはどこか違っていた。三十年前に起きたという大震災後の街を、新たな形へと作り変えたのだろう。かつての情緒ある温泉街の面影を残しつつも、地震への教訓からか、街並みは高層建築を避けた低層で堅牢な造りに統一され、無数の湯煙と平坦な屋根が連なる独特の風景が完成していた。

ゼウスは偽装したポケットに手を入れ、通行人の振りをしながら、湯煙の向こう側にある未知の現在へと足を踏み入れ、脳内に管理パネルを仮想展開して周囲の解析を開始した。

(文明の進歩は、俺の記憶にある 十九年前 から着実に進んではいるようだが……。当時ようやく普及の兆しを見せていたあの薄い端末が、今や社会の理そのものになっているようだな)

道を行き交う人々は、かつてと同じように、手に持った薄い板状の端末――スマートフォンを覗き込んでいた。ただ、その薄さは極限まで増しており、一部の者は耳元に小型のイヤホンを装着して、何もない空間に向けて静かに呟いている。

通りを低速で進む公共の小型バスには、運転席に人が座ってはいるものの、ハンドルを握る手は膝の上に置かれている。限定的な条件下での自動運転が実用化されているのだろう。車両の周囲を走査するセンサーの反応が、理を読み取るゼウスの視界には、不可視の光の波として淡く映し出されていた。

ゼウスは道端の自動販売機の前で足を止め、パネルの情報を走査した。そこには、かつてのような硬貨の投入口がどこにも見当たらない。代わりに、端末をかざすための非接触型感知器と、生体認証を兼ねているであろう小さなカメラのレンズが、静かにこちらを向いていた。

(通貨の完全な電子化は完了しているか。俺が死んだ二〇一二年には、まだ誰もが財布の中の小銭を数えていたものだが、物理的な貨幣を廃し、数値のみで価値を交換する理の構築にはある種の合理性さえ感じるな。……となると、無一文の俺がこの世界で物資を調達するには、少々工夫が必要になるな)

その時、近くの掲示板に貼られた電子看板が切り替わった。

『別府復興から三十年――羽柴内閣が推進する新エネルギー政策の今』

その画面には、温泉の熱を利用した大規模な発電施設と、その管理を担う省庁の紋章が映し出されていた。

(羽柴、か。二〇〇〇年の新聞に載っていた首相の名が、三十年以上経った今もこの国の中心にいるのか。……あるいは、その血族か)

ゼウスは興味深くその情報を分析しながら、この街に流れる微弱な魔力が、温泉の湯煙と同じ場所から供給されていることに気づき始めていた。

(この魔力の揺らぎ。地熱発電と称して、地下にある魔力の脈を吸い上げているのか。面白い。科学と魔術が、無自覚に混ざり合っているというわけか)

ゼウスは仮想ウィンドウを操作し、さらにパネルの走査範囲を広げ、ある興味深い事実に辿り着く。

(……ほう。この世界の人間は、魔力を『体力』として消費しているのか。大気中に漂うのではなく、個々の人間に内包されているのだな)

パネルが示す通り、空気中の魔力密度は極めて微弱。だが、道を行く人間という「器」の中には、生命活動の源として一定の魔力が凝縮されている。肉体を動かすための活力として、彼らは自覚せぬままその身に魔力を循環させ、内包するエネルギーを少しずつ消費しているのだ。

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