第3話:安全圏の消失

聖王都の玉座の間。

ルードヴィヒは、玉座の背に深くもたれながら、周囲の静寂を楽しんでいた。勝利の報告を待つ、この焦らされるような時間さえも、彼にとっては至上の愉悦であった。

側近の一人が、緊張した面持ちで前に進み、低い声で報告を始める。

「魔界国境付近、敵勢力の迎撃は確認されておりません。先遣隊からの通信も途絶えたままですが、抵抗の兆候はなしと判断されます」

その報告に、ルードヴィヒは満足げに頷く。

「想定通りだな。魔族どもは、まだ状況を理解できていない」

彼の顔には焦りは見られなかった。魔王は死に、指導者を失った魔界は、今ごろ混乱の極致にあるはずだ。それは彼にとって、疑いようのない確定した未来であった。

玉座の間の空気は、心地よい沈黙に包まれていた。側近たちもまた、王の勝利を疑わず、和やかな静寂の中にいた。

――その時、微かな違和感が、全員の意識を撫でた。

誰かが魔力を放ったわけでもない。結界が揺らいだわけでもない。ただ、何かが「ずれた」という感覚が、居並ぶ者たちの背筋を撫でた。

「……今のは?」

側近が不安げに、周囲を見回す。床も、壁も、天井も、すべてが変わらない。王権を象徴する紋章も、玉座を守る結界も、間違いなく存在していた。それでも、ここが「絶対に安全な場所である」という確信だけが、理由もなく揺らいでいた。

ルードヴィヒの表情がわずかに変わり、眉をひそめた。

「些細な違和感に惑わされるな。この玉座は代々の王が積み上げてきた最強の加護、『王家の血誓』によって守られて――」

言葉が、途切れた。

ルードヴィヒが視線を向けた先。

玉座のすぐ正面、広間の中央に、一人の少年が立っていた。

いつからそこにいたのか。

いつ、扉を開けて入ってきたのか。

あるいは、いつ「現れた」のか。

誰も、その瞬間を見ていなかった。少年は、極めて自然に、そして圧倒的な異物感を放ってそこに佇んでいた。

「な――ッ!? い、いつからそこに……!」

衛兵の叫びが、静寂を切り裂く。

だが、少年――ゼウスは、騒ぎ立てる周囲を視界に入れることすらしない。

彼はただ、冷徹な観察者の目で玉座を見上げ、淡々と口を開いた。

「……あんたが、父上の殺害を命じたのか」

ルードヴィヒは息を呑み、次いで震える喉を抑えつけるようにして、無理やり不敵な笑みを浮かべた。

「魔王の小倅か。……そうだ。命じたのは私だ。それがどうした?」

自らの内側に沸き起こる正体不明の恐怖を打ち消すように、ルードヴィヒは言葉を重ねる。

「魔王を欺き、手にかけさせることで、私は魔界という隣国を征服しつつある。すべては計画通りだ。これで、平和が訪れる」

その言葉には、勝ち誇った自信と、自らを鼓舞するような確信がにじんでいた。

「この玉座に座る限り、私は建国以来の魔力が宿る結界に守られている。お前のような小僧に、何ができる?」

王の言葉に応じるように、周囲に神聖な魔力の障壁が展開される。

だが、ゼウスは静かに片手を上げ、慣れた手つきで虚空をなぞった。そこにはルードヴィヒには見えない透過した光の画面――『管理パネル』が静かに展開された。

(『王家の血誓』……なるほど、座標に固定された高密度の防護術式か。だが、すでにここは俺の領域内だ)

ゼウスの指先が、パネル上の項目を無造作になぞる。

(対象:玉座周辺の全防護魔法。……『削除』)

指が実行を叩いた刹那、ルードヴィヒを包んでいた神聖な輝きが、一瞬で掻き消えた。

「なっ……!? 結界が、消えた……?」

喉の奥から絞り出したような王の掠れ声が、静まり返った広間に響いた。

誰もが己の目を疑った。建国以来、一度として揺らぐことのなかった『王家の血誓』が、目の前の少年の指先一つで、霧よりも脆く霧散したのだ。

驚愕に顔を歪める王を、ゼウスは一瞥もせず、パネルの操作を続ける。

「……これでおしまいだ」

ゼウスがパネル上で『削除』を実行した。

「……ありえん。この私が、このような……馬鹿な、やめろッ……ぐ、あああああッ!!」

ルードヴィヒの肉体が、足先から音もなく灰色の粒子へと崩れていく。

それはかつて彼が魔王に放った、あらゆる治癒魔法も万能薬も寄せ付けぬ、あの呪わしき毒の再現――いや、それ以上に無慈悲な、「抹消」だった。

「……っ、あ、がッ……!!」

悲鳴を上げる喉が、肺が、そして命乞いを紡ごうとした舌が、次々と乾いた塵へと変わっていく。彼が頼りとした数々の魔道具も、その崩壊を押しとどめることは叶わない。

最後に残った瞳に、かつて自分が他者に与えたはずの「救いのない死」への恐怖が張り付いた。

その瞳さえもがサラサラと指の間を零れ落ちる砂のような塵となり、玉座の前にはただ、主を失った衣服と、かつて王であった灰色の塵の山だけが残された。

王という器が粉々に砕け散り、主を失ったことで、彼が身に付けていた強力な魔道具の数々が、一斉に制御を失い暴走を始めた。

魔力の過負荷(オーバーロード)に、空中の管理パネルが激しいノイズを走らせた。

「……なんだ、この干渉は。解析(スキャン)が追いつかない……!」

ゼウスは眉をひそめ、即座に指を走らせて暴走する魔力を強制排除(パージ)しようと試みる。だが、視界に浮かぶパネルには無情な警告――『処理遅延:領域の崩壊速度がシステム処理を上回っています』というエラーが赤く点滅し続けた。

管理権限をもってしても、情報の処理速度が物理的な破滅に追いつくには、あまりに時間が足りなかった。

背後では制御を失った魔道具が連鎖的に爆ぜ、玉座の間を支える巨大な列柱を、逃げ惑う人々もろとも粉砕していく。このままでは魔界から引いた「一直線のライン」までもが、空間の瓦礫に呑み込まれて消失する。

ゼウスは舌打ちし、事態の収拾を断念。自身を魔界へ戻すための接続パスを維持することに全リソースを転換した。

「……っ!」

ゼウスは、崩れゆく空間の中で光のラインをその手で強く掴み、漆黒の裂け目へと飲み込まれた。

激しい崩落の末、すべてを飲み込んだ裂け目が閉じると、後に残ったのは、ただ空虚なまでの静寂だけだった。

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