エッグベネディクトが食べたかった

於田縫紀

エッグベネディクトが食べたかった

 ある夜。

 俺の倫理観は、エッグベネディクトへの渇望に追い越された。

 きっかけは些細な空腹。

 しかし一度イメージが固まると、もう止まらない。


 ナイフを入れた瞬間に溢れ出す黄金の黄身。

 バターがじゅわりと染みたイングリッシュマフィン。

 それらを統べる、酸味の効いた濃厚なオランデーズソース。


 この時間ではもう、それなりのレストランは開いていない。

「明日朝の予約を取れ」と囁く理性を、「今すぐ食わせろ」という野性が殴り倒した。


 俺は最も早く満足すべく、机から俺が所持している中でもっともリアルな武器を取り出しポケットに放り込む。

 まずはスーパーだ。

 そして……


 ◇◇◇


 この街にある最高級のホテルは、深夜の静けさの中に沈んでいる。

 俺は客のような顔をして玄関から入ると、レストランの近くにある『従業員専用』の入口から中へと潜り込んだ。


 万が一に備え、用意していた武器を懐から取り出す。

 こんな遅い時間では、もうコックは残っていないかもしれない。

 そうしたらどうしようか。

 そう考えつつ進み、ステンレスが鈍く光る広大な厨房へとたどり着く。


 立ち上る湯気と、微かなハーブの残り香。

 そして奥に1人、その男がいた。

 白衣をパリッと着こなし、明日の仕込みだろうか、淀みのない手つきで包丁を動かしている。


「あなたは、ここのコックですね」


 背後からの俺の声に、男はゆっくりと振り返った。

 五十前後だろうか、彫りの深い、落ち着いた顔立ちだ。

 彼は、俺が構えたモデルガンとスーパーのレジ袋を一瞥し、深いため息をついた。


「……予約なら、フロントで承りますが」


「待てません。今、ここで作ってください。ここで出来る、最高のエッグベネディクトを」


「……確認ですが、エッグベネディクトでよろしいのですか?」


「ええ、もちろんです」


 男は少し困ったように眉根を寄せ、口を開く。


「ですが私は中華のシェフです。専門は点心と広東料理になります」


 えっ!!!!!

 訪れた静寂の中、換気扇の回る音だけが虚しく響く。


「……中華?」


「ええ。卵は毎日扱いますが、オランデーズソースは守備範囲外です」


 俺は崩れ落ちる。

 なんということだ。

 まさかこの、いかにも洋風な高級ホテルのキッチンにいたコックが、中華専門だなんて。


 しかし、今さら止まるわけにはいかない。

 俺はもう限界だ。


「しかし卵料理は得意なのでしょう? 技術そのものは共通するはずです」


 俺はそう食い下がる。

 男はしばし沈黙した後、小さく頷いた。


「わかりました。私なりに、エッグベネディクトという注文に応えましょう。こちらの材料は必要ありません。私の手で、今出来る最良のものを作らせていただきます」


 そこからの彼の動きは、早かった。


 まずは鍋に水を入れ、火にかける。

 次にフライパンに油を注いで火にかける。

 冷蔵庫から何か生地っぽいものを取り出して、棒状に伸ばした後ささっとまとめて、フライパンに入れて蓋をする。


 更に冷蔵庫から加工肉っぽい塊を取り出し、薄く切る。

 更に別のフライパンを取り出し、その肉を焼いて茶色い味噌っぽい調味料と強烈な香りがする酒でさっと味付け。


 水をかけた鍋の方が沸騰しはじめた。

 さっと中に別の液体を入れ、静かに卵を落とす。


 同時にいくつもの作業を流れるようにこなす姿に見惚れているうちに、皿が完成した。

 パンっぽい上にベーコンっぽい肉が敷かれ、その上に震えるようなポーチドエッグ、そして黄金色のソースがとろりとかかっている。

 見かけはエッグベネディクトっぽいが、果たしてこれは?


「どうぞ。エッグベネディクトという注文に対して、今の私が提供可能な一品です」


 箸で取れるよう、あらかじめ切り分けられている。

 その一つを口に運んで噛み締めた瞬間、脳を直接殴られたような衝撃が走った。


 美味しい。文句なしに、美味しい。

 外側がカリッと焼き上げられた、パンより堅いがさくっとして香ばしい何か。

 ベーコンより数段肉の味が濃い加工肉、基本は甘辛で、ちょっと酸味もあるソース、そしてふわとろの卵……


「これは?」


烙餅ラオピンの上に雲南ハムをのせ、上に半熟よりやや固めの卵を乗せたものです。いかがでしょうか」


「美味しい」


 求めていたものとは、見た目以外は全く異なる。

 それでも暴力的なまでの美味しさに、俺の飢えと欲望はノックアウト寸前だ。

 猛烈な勢いでただただ口へと運び、皿が空になった後。


「ありがとうございます。これは何という料理でしょうか? ここのレストランに来れば、また食べられるのでしょうか」


「名前はありません。求めに応じて即興で作った料理ですから。ですので正規のメニューにはありません」


「残念です」


 俺は本気で残念だと思った。

 しかし男は、微かに笑みを見せる。


「ですが貴方が満足したのなら、きっとこの料理にはそれなりの力があるのでしょう。ですのでいつか、正規のメニューにも載せるかもしれません」


 また食べられる可能性があるのか。

 何か希望が見えた気がした。


「あとその道具を使うのは、正直おすすめしません。見る者が見れば偽物だとすぐにわかります。ミネベア刻印入りのエアライトは、日本の官警しか使いません」


 おい、ちょっと待て。

 このコック、銃器マニアかよ!

 気になったので聞いてみる。


「よくわかりましたね。何かそのような趣味がお有りなのでしょうか」


「前に働いていたホテルでは、さっと見分けて対処出来ないと生死に関わりましたから」


 どんな危ない場所で働いていたんだよ、この人は!!!


 ◇◇◇


 翌朝。

 どうしても気になったので、俺は近所のカフェで、ごく普通のエッグベネディクトを注文した。

 卵は見事に半熟で、ソースはお約束な酸味。

 確かに俺が昨日、焦がれていたはずの味だった。

 しかし……


 マフィンに歯ごたえと香ばしさが足りない。

 肉も凝縮された旨味を感じられない。

 ソースも紹興酒の香りと甘みが欲しい気がする……


 そう、明らかに物足りないのだ。

 駄目だ、我慢できない……


 その夜、今度は別のモデルガンをポケットに入れ、俺は再びホテルへと足を向けた。

 そして……


「申し訳ない。私はイタリアンのシェフです。専門はピザとパスタになります……」


(continue?)

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