婚約破棄を叫ぶ男に金的蹴りしたお嬢様(1)

「マーサ、あのね、わざとでは無かったのよ。ねえ、聞いてくれる?」

「ええ、ええ。聞いておりますとも、お嬢様。お嬢様は大切なご友人を守る為にされたと、マーサは知っておりますとも。ですが、それはそれでございます」

「はい……ごめんなさい……」


 乳母のマーサからこんこんと諭されているのは、彼女のお嬢様ことアンジェリカ・バレシアナ。バレシアナ侯爵家の娘で、つい先日までは地味で大人しく、『均衡と調整のバレシアナ』と言われる中ではまったく目立たないご令嬢であった。

 しかし今の彼女は男に恐れられ、一定数の女性からは英雄のごとき崇拝されている。


 ことの始まりはとある夜会にて、アンジェリカの長年の友人――否、親友が浮気相手を引っ付けた婚約者に婚約の破棄を大声で宣言された事だろう。

 政略によって決められた婚約は親友の方が親の爵位的にも財産的にも上だったのだが、男は浅はかにも親友を貶めて自分に非が無いと周りに思わせる為に大声を出したのだ。


『私は真実の愛を知った!そして今彼女のお腹には二人の愛の証がいる!』


 結婚前からの浮気に加えて、肉体関係を持った上に避妊もせずに妊娠させるという碌でも無さを、真実の愛とかいう意味の分からない言葉で装飾した男。

 勢いが良すぎて周りが思わず祝福しかけ、親友が悔し涙を浮かべたのを見て、アンジェリカは生まれて初めて腹の奥底からの怒りというものを知った。

 アンジェリカにとっての幸運で男にとっての不運は、今のドレスの流行が前はすとんと下に落ち、後ろに膨らみを持たせるデザインだったことか。

 それともアンジェリカが兄に付き合って女だてらに剣や乗馬を嗜んでいた事か。

 ドレスのスカートを摘んだアンジェリカは男の前に立つとにっこり笑い、そして勢いよく片足を後ろに振り上げ、そのまま前に向かって振り下ろし、勢いのついた足先が届いたのは男の股間部分だった。

 淑女たるもの、美しいカーテシーをする為には体幹の良さが必須で、アンジェリカはぶれることなく見事に金的蹴りをキメた。

 声も無き悲鳴を上げて悶絶している男を、アンジェリカは普段の大人しさをかなぐり捨て、汚物を見るように見下ろした。


「下劣な。厳格たる契約に基づいた婚約を蔑ろにした挙句、己の情欲を抑えられずに行動するなど、獣にも劣る愚物。子を孕み産ませる事を安易に考えているのも気に食わない。この国で年にどれだけの妊婦が産後に亡くなっているのか分かっているのか」


 アンジェリカの従姉は血が流れすぎてしまって子を産んだ後に亡くなった。優しくて笑顔の素敵な従姉の葬儀には多くの彼女の友人が来ていた。従姉の夫は泣きながらも生まれた赤子を抱いて必ず守ると誓っていた。

 幼かったアンジェリカにとってその別れの悲しさと共に、子供が産まれることは奇跡なのだと強く心に焼き付けた。


「浮気相手の貴方は分かってるの?そこの男はマリアーネの家に婿入りする予定で、貴方を選んだら貴族ではなくなるのよ。その男を手に入れる為に体を使ったのかもしれないけれど、出産は命懸けなのよ?貴方、死ぬかもしれないのよ?」


 男に向けていた冷徹な目とは一転、浮気相手にはやや同情を見せていた。妊娠が嘘ならいいのだけれど、浮気相手の女は思ってもいなかったことを言われたという愕然とした表情で腹に手を当てていた。悲しい事に妊娠は真実だったようだ。


「マリアーネ、ごめんなさい。彼女は貴方の婚約者の浮気相手だけど、妊婦をこのままにしておけないわ」

「ええ、大丈夫よ……複雑だけど、お腹の子の為にも冷やしてはいけないわ」


 ホールを歩く使用人に目を向け手を上げればすっと音もなく近寄って来る。外側から様子を確認していたのか、手にはストールらしきものを持っていた。

 それを受け取ったアンジェリカは浮気相手の肩にストールを掛ける。涙を目に浮かべた浮気相手の子はよく見ればまだ幼さが見える。彼女がどこの誰かは分からないけれど、既に子は腹にいるのだ。


「申し訳ないけれど、彼女をソファに。お腹は冷やさないようにして上げてくださいな」

「かしこまりました」


 従姉の事が少しばかり心の傷になっているアンジェリカはどうしても妊婦に甘くなってしまう。

 だが、男に対してその優しさは向けられない。

 痛みからか恐怖からか、座り込み震えている男に再び冷えきった視線を向けたアンジェリカは、扇を取り出し口を隠すようにする。


「お前は貴族としての矜持も常識も無いのね。マリアーネは尊き公爵令嬢であり、次期公爵。それに対してお前は伯爵家の子として望外の幸運を得たというのに。お前に責があるにも関わらずよくも破棄などと言えたわね」


 目だけでわかる、明らさまな蔑み。ここにいる多くの人はここまで苛烈な女を見た記憶が無かった。否、記憶に残っていなかった。

 当然だろう、アンジェリカはわざと地味に目立たないように生きてきた。

 彼女はバレシアナの娘だからだ。


 先代王妃で現王太后コーリンはアンジェリカの祖母の妹である。歴代王妃の中でも歴史に名を残すであろう才覚で国を豊かにしながら国王を支えていた。

 バレシアナの悪魔と言われたコーリンは、今は離宮で静かに暮らしている。そしてアンジェリカの祖母は本来はコーリンではなく彼女が王家に嫁ぐはずだったが、婚約の破棄を言い渡されて、結局解消の後に侯爵家当主となった。現在はアンジェリカの父に当主を譲った後に祖父と定期的に旅をしている。今もどこかの国へ行っているはずだ。

 姉の兄、本来であれば当主になるはずだったガレウスは隣国の、臣籍降下して公爵になった元王女に請われて婿に行った。

 バレシアナは王族との絶妙で均衡の取れた関係を維持し続けなければならない為、極力目立たないようにアンジェリカは生きていた。


 しかし、親友が傷付いたのを放置など出来ない。それ以上に『均衡と調整のバレシアナ』ならば、明らかにマリアーネを放置してはならない。彼女の名誉が貶められれば公爵家の格が下がる。そうなると貴族間の均衡が崩れる。

 祖母、大伯父、大叔母の時に酷かった王家の状態を整えたばかりなのに、孫の自分の世代で崩す訳にはいかなかった。


「この一件、バレシアナ家が娘アンジェリカが証人となり、婚約の継続は困難であると両家に通達致します。家で震えて待っていなさい」


 未婚の令嬢らしく、下ろされた髪の毛は艶やかで真っ直ぐな黒。祖父の色合いを持つアンジェリカは最後の最後までマリアーネの婚約者の男に優しさの欠けらも与えなかった。



 まあ、そんな事をすればすぐさま話は広まるもので、祖母が元気だと言うことはその世代もまだまだ現役が多い。

 祖母は手こそ出さなかったが言葉ではもちろん、やられたら同等の量でやり返していたそうだ。

 バレシアナは貴族の力関係が崩れる前に調整する事が最重要の役目としている。バレシアナに賄賂も脅迫も意味を為さない。全てが公平になるように整える。

 勘違いしてはならないのが、あくまでも貴族間、並びに王家と貴族の間の関係性の均衡を整えるのであって、どこぞの家が不正している、とか金稼ぎしすぎ、とかそんなのには関わらない。その結果が均衡を崩すのであれば干渉するが、やり過ぎるのは役目違いだ。

 今回においてはマリアーネのカサドラ公爵家の立場を守る必要があった。父からは「よくやった」と褒められたものの「男にとって、あれは恐ろしい行為だから、二度としてはいけないよ」と真顔で告げられたし、兄には「頼むから俺にはやらないでくれ」と距離を取られた上で言われた。

 この一件でアンジェリカは必要とあらば男性の急所を容赦なく攻撃すると認識されるようになってしまった。アンジェリカは確かに剣を振るえるし乗馬も出来る。しかし、決して乱暴な性格ではないのだ。

 親友を傷付け、公爵家の名を貶め、更に少しばかり浮かれた上昇志向のある令嬢に真実を語らず、無責任にも孕ませた事が許せなかった。

 だから『バレシアナ』らしく、釣り合いが取れる罰として金的蹴りを与えたのだ。それでもまだそちらの方が軽いだろうに。時間が過ぎれば痛みが無くなるのに対し、マリアーネは新たな婚約者を探し、家は婿候補に仕事を教えなければならず、浮気相手の令嬢は宿した命を命懸けで産み落とし育てなければならないのだ。終わりなどない。


 男からは恐れられたアンジェリカだが、意外にも一定数の女性からは拍手喝采で受け入れられていた。

 この国ではまだまだ女性の地位は低い。女性が当主になれるけれど、大抵は嫁いでも発言権は殆ど無いし、婚前の浮気は許されなくても結婚後であれば愛人を持つのは男の間では慣習として存在している。

 後継者は正妻の子供が優先されるのだから我慢しろ、と当たり前のように言う男に苦しめられてきて女性は多い。

 アンジェリカはそんな男達に見せつけるように一撃で一人の男を悶絶させ、多くの男を震え上がらせた。その場にいた多くの女性にはその痛みが分からない。なので心からすっきりとしていた。

 横柄な態度をする夫や婚約者が股間に手を添えて震えている姿がみっともなくて、長年の不満が少しだけ軽くなったそうだ。



 まあ、そんな事はアンジェリカの乳母であるマーサには関係の無い事である。

 ただでさえバレシアナの娘は嫁ぎ先の選定に苦労するのに、この一件で釣書が一枚も来なくなったのだ。

 マーサにとってのアンジェリカはいくつになっても可愛らしいお嬢様である。マーサの娘はアンジェリカの侍女として常に傍に控えている。母娘揃ってアンジェリカを宝物のように守り慈しみ育ててきた。

 バレシアナとして、周りの関係性を常に注視し気を配り、決して目立たぬ令嬢としての在り方は本来のそうあるべきなのだ。

 バレシアナが表に出る時はそれだけ世が乱れている証。数十年前の、祖母とコーリンの一つ前の代の国王が貴族間派閥の兼ね合いを理解せずに我欲を通した結果、名を抹消された王妃を選んで不穏の種を撒いた時のように。

 それ以外でのバレシアナ家の人間は静かに控えていたからこそ特殊な在り方を許されていた。

 マーサとてバレシアナ一族の一人である。本家ではなく遠い分家の女でバレシアナの重要性はわかっている。今回とてアンジェリカが動く必要があった事は賛同しているが、やった事が問題だ。

 幸せな結婚をして欲しいのに、その相手が見つからない状況は如何なものか。

 この件に関してはアンジェリカの母でありバレシアナ侯爵夫人からきちんと分からせるように、と命じられている。

 ままならないわ、とため息を禁じ得ないアンジェリカはマーサのお説教を一応は聞きながら、貴族って大変だわ……と現実から思考を遠くに飛ばしていた。



 そんなアンジェリカを求めて釣書が来るようになったのは二週間ほどしての事で、数人ではあるが大層ご立派な肩書きの方ばかりである。


 一人目は騎士団に所属し、第二騎士団副団長のトルステン・バンダー、25歳。現在18歳のアンジェリカの7歳年上で、家は伯爵家。派閥としてはマリアーネのカサドラ公爵家に属している。

 結婚した場合は騎士の妻となる。

 淡い金色の髪の毛に水色の目をした、背が高く体格も良く、ご令嬢人気はかなりある。

 三年前まで婚約者がいたものの、その婚約者が病に倒れたので解消……と言うのは表向きの事で、どこぞの誰かとの間に子が出来た為に相手側の責で表向きは解消だが、相当の慰謝料を受け取ったらしい。

 この情報はマーサの娘でアンジェリカの侍女のナタリーが仕入れて来た。


 二人目は宰相であるロワラーナ公爵の次男マクレガンで、結婚した場合は家が所有する伯爵位を受けて独立する事になる。

 深みのあるオリーブグリーンの髪の毛に濃い緑の目。眼鏡をかけていて頭脳派。

 穏やかな性格の為、宰相補佐には向いていないと領地経営の方を学んで来た22歳。

 確実に伯爵になるのが決まっているので狙っていた令嬢とその家は多いとの事。

 王家派の派閥の長がロワラーナ公爵家な事は言うまでもない。


 三人目はハベスティア子爵家当主カイル、26歳。21歳の時に前当主が亡くなり急遽跡を継ぐ事になった方で、商会を有していた為、そちらの仕事も合わさり多忙の日々を過ごし、結婚相手を見つける所ではなかった。

 国内でも有数の大商会の商会長としてのお名前が有名。他国に赴く事もあり、妻には彼の代わりに領地経営の補佐をする能力を求めている。

 日に焼けた肌、赤茶の髪の毛に榛色の目をした、ナタリーが聞いた噂によるとシャツを腕まくりして見える腕が逞しくてセクシーとのこと。

 一応の派閥は中立派で、商人としての付き合いを大事にしている。


 何れの方も立派で、母は名だたる人物の名に若干興奮しているものの、同席していた父と兄は微妙な表情をしていた。


「お父様、お兄様。紳士クラブでの彼等の噂は?」

「う、うむ……ダレス、頼む」

「父上逃げないで下さい。アンジェリカ……そのだな……あくまでも噂だ。噂だから真実かは分からないと思ってくれ」

「今の時点で嫌な予感がしますわ」

「ああ。そのだな……トルステン殿とマクレガン殿は、女性に、可愛がられたいらしい」

「……精神的と肉体的がございますよね?」

「噂だ。あくまでも噂だが、トルステン殿は肉体的に、マクレガン殿は精神的に……」

「何故です!? 私にはそんな趣味はありませんが?」


 母は言葉を失って兄のダレスを見ている。父は窓の外へと視線を向けて現実逃避。兄は言葉を選んでいるが、どうにも出来なかったのだろう。

 苦しそうな顔でアンジェリカを真っ直ぐに見る。


「お前の名が一気に知られるようになったあの夜会でだな……それまで印象にも残らなかったアンジェリカの虫を見るかの如く蔑みを込めた目が、そう言った性質を持つ方の琴線に触れたらしい」

「なんてこと……」

「そして、そう言った性質の方は意外にいる。カイル殿はその噂を聞いた事がないから違うと思うが、他のお二方は勝ち抜いた上で釣書を送ってきたらしい」

「どういう意味ですか?」

「言葉通りだ。同じ性質の方の集まりの中でお前に求婚する順番を決めたらしい。誰が最初に送るかを決めるのに時間が掛かったらしい」


 アンジェリカは理解するという行為そのものを止めていた。訳がわからなすぎて思考が停止している。


 間違いなくトルステンもマクレガンも彼らと結婚したい令嬢は多いだろう。そんな二人からの縁談申し込みの理由が、あの日の金的蹴りと汚物に向ける視線だと言うのならば。


「無理です。私には彼らを満足させられる気がしません」


 釣書をそっとテーブルの上に戻した母。二枚の釣書を視界に入れてアンジェリカは嫌悪感増し増しで見ていたら、ダレスから「その表情だよ」と言われてしまう。


「お前はそもそも顔がいい。夜会で気配を消す為に地味を装っていたけれど、本来のお前を全面に出せば、差が大きすぎてより際立つんだ」

「そうですか」

「俺の友人……ああ、彼らのような性質を持っていない普通の奴だが、そいつが言うには、あの時なお前は凄みのある美人だと思われたそうだ」

「そうですか。次の夜会では更に地味にしなければ」

「手遅れじゃないか?」

「分からないでは無いですか。今まで隠せていたのですから」


 父母を置き去りに兄と会話をしていたアンジェリカは、釣書に視線を向ける。二人はこの時点でお断り対象だが、もう一人は会ってみてもいいかもしれない。


「お父様、ハベスティア子爵様ならお見合いをいたします。少し気になる事が」

「そ、そうか。何が気になる?」

「彼の商会は大規模で、国内のみならず国外にも広がっていますよね。その広い網は我がバレシアナ家にとって見過ごす事は出来ません」


 バレシアナ家はどちらかと言えば高位貴族には強いが、下位貴族や平民までは網羅出来ていない。ハベスティア家はその不足している点を補える。


「お祖母様と大叔母様が以前仰っていたのですが、貴族社会はまだ潰えることはないけれど、力ある下位貴族や平民は間違いなく台頭してきて、国は何れ混迷を極めるだろう、と」


 変わらないものは無い。変化に応じて対応するのがバレシアナ家であり、その教えを受けて育ってきたアンジェリカは先程までの理解不能な混乱から抜け出して冷静になる。

 母はこうなると口を出さない。母はバレシアナ家に関わりのない、しかしバレシアナの在り方を理解している家から嫁いできた。

 他家には無い独自の教育を施されるバレシアナのやり方に触れ、祖母から直接学んできたので弁えている。


「お兄様を支えるには丁度良いと思います」

「分かった。あちらもそれを承知の上だろう。バレシアナに関わるつもりならば、覚悟を決めて貰わなければな」


 ピリ、とした緊張感が部屋の中に漂う。普段はやや巫山戯気味のダレスも真面目な顔をしている。

 先祖代々受け継いできている『均衡と調整』と言う二つ名は決して軽くは無い。常に己を律し、国の安寧の為に何が最善かを考えなければならない。例え家を出て嫁ぐ事になっても変わらない。

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