第10話 「信用が先に歩き出す」
――名前よりも先に広がるもの
それは、僕のいない場所で起きていた。
父が会社から帰ってくるなり、居間に座る前に言った。
「今日な……」
言葉を探すように、少し間を置く。
「お前の話を、初めて“直接聞いていない人”からされた」
胸が、静かに沈む。
「どういうこと?」
「取引先の人だ。会ったこともない」
父は苦笑した。
「なのに、知ってた。お前が“軽々しいことを言わない”って」
――もう、届いている。
僕がどんな顔をしているかも、
どんな言い方をするかも知らない人間に。
噂は、もう形を変えていた。
数日後、現実としてそれを思い知らされる。
学校の帰り、知らない大人に呼び止められた。
「君が……」
一瞬、言葉を選び直す。
「○○さんの息子さんだね」
名字だけ。
名前は出さない。
それだけで、理由は察せた。
「ちょっと、立ち話を」
逃げ場はない。
だが、走って逃げるのも違う。
立ち止まる。
「聞きたいことがあるんだ」
その人は、周囲を気にして声を落とした。
「最近、ある会社の話を……」
来る、と思った。
だが、続きは予想と違った。
「“何も言わない子がいる”って聞いてね」
心臓が、少しだけ強く打つ。
「その“何も言わない”が、信用できるって」
――そこまで行ったか。
僕は、何も言わなかった。
沈黙が、僕の代わりに働く。
相手は、勝手に続けた。
「買えとは言わない。だが、止めもしない。
だから、考えさせられる……そういう存在らしい」
それは、評価だった。
しかも、僕の知らない文脈で、完成している。
僕は、ようやく口を開いた。
「僕は……何も分かりません」
それだけ。
相手は、満足そうに頷いた。
「それでいい」
去り際に、こう言った。
「君は、もう“そういう役”だ」
その言葉が、背中に刺さった。
――役。
自分で選んだわけじゃない。
だが、もう降りられない。
その夜、父と向かい合って座った。
「どうする?」
父は、真正面から聞いてきた。
逃げ道を残さない、質問。
僕は、正直に答えた。
「受け入れる」
「怖くないのか」
「怖い」
即答だった。
「でも、否定すると、もっと危ない」
父は、しばらく黙っていた。
「信用ってのはな」
やがて、ゆっくり言った。
「持った瞬間から、責任になる」
「分かってる」
――分かっているから、怖い。
翌週から、変化ははっきりした。
聞きに来る人間が減った。
代わりに、様子を見る人間が増えた。
声はかけない。
だが、行動を観察する。
僕が何を言うかではなく、
何も言わないかを。
信用は、先に歩き出す。
持ち主を置き去りにして。
昭和の相場では、
名前より先に、空気が伝わる。
そして、空気は戻らない。
僕は知っている。
この先――
誰かが、必ず失敗する。
そのとき、責任の矛先は、
“何も言わなかった僕”にも向く。
それでも。
ここまで来た以上、
引き返す選択肢はなかった。
未来を知る者は、
信用から逃げられない。
それが、昭和という時代だった。
『昭和逆行投資録――50歳、知識チートで小学生からやり直す』 よし @tyokottoyosi
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