第9話 「沈黙が最強になる」
――語らない者が残る理由
僕は、話さなくなった。
正確には――選んで、黙るようになった。
それまでの僕は、聞かれれば答えていた。
当てない言葉で、熱を冷ます言葉で。
だがそれすら、噂の燃料になると知った。
だから、沈黙を選んだ。
最初に気づいたのは、父だった。
「最近、何も言わないな」
夕食のあと、湯のみを片づけながら、そう言った。
「聞かれないから」
「聞かれても、だろ」
父は笑った。
責める笑いではない。
「それでいい」
短い一言だったが、重みがあった。
翌日から、周囲の反応が変わった。
「どう思う?」
そう聞かれても、僕は首をかしげるだけ。
「分かりません」
たったそれだけ。
相手は拍子抜けする。
だが、不思議と不満そうではなかった。
「まあ……そうだよな」
そう言って、引き下がる。
だが、次に来る人間は違った。
「前に話してたこと、覚えてる?」
過去形。
今を聞かない。
僕は、ゆっくり頷いた。
「覚えてます」
「今も、変わらない?」
これは、質問じゃない。
確認だ。
僕は、答えなかった。
沈黙が落ちる。
数秒。
だが、その数秒で、相手は自分の考えを並べ始める。
「いや、俺もな……」
「数字を見てると……」
「やっぱり、早い気がして……」
――そう。
人は、沈黙を埋める。
僕が言わなくても、相手が勝手に語る。
それは、責任が相手に戻る瞬間だった。
数日後、父の同僚が、珍しく困った顔で来た。
「聞きたいことがある」
そう前置きしてから、こう言った。
「“今は何も言わない”ってのは……危ないって意味か?」
言葉を、慎重に選んでいる。
僕は、少しだけ考えてから答えた。
「急ぐ理由がない、って意味です」
それだけ。
同僚は、深く息を吐いた。
「……なるほどな」
その日の帰り際、彼はこう言った。
「お前に聞いて、決めた気がする」
――決めてないのに。
それが、沈黙の力だった。
噂は、言葉で膨らむ。
だが、信用は、言葉が足りないところに溜まる。
しばらくして、僕の周りには二種類の人間が残った。
ひとつは、答えを欲しがる人間。
もうひとつは、判断を預けに来る人間。
前者は、離れていった。
後者だけが、残った。
そして気づく。
――これは、役割だ。
当てる者。
煽る者。
語る者。
その反対側に、
何も言わない者が、必ず必要になる。
昭和の相場は、情報が少ない。
だからこそ、沈黙は重い。
その夜、父がぽつりと言った。
「お前はな」
新聞を畳みながら。
「俺より、ずっと大人だ」
胸の奥が、少し痛んだ。
――違う。
大人なのは、知識じゃない。
失う怖さを、知っているだけだ。
未来を知る僕は、
ようやく昭和という時代に、
“居場所”を作り始めていた。
語らないことで。
沈黙という、最強の技術で。
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