第8話 「名前が独り歩きする日」
――噂が価値に変わる瞬間
最初は、違和感だった。
商店街の角で、八百屋の親父が父に声をかけたときのことだ。
「この前の話だけどよ」
新聞を丸めたまま、声を潜める。
「“あの名前”、まだ覚えといたほうがいいか?」
父は足を止め、少し困ったように笑った。
「何の話だ」
「ほら、最近ちょくちょく出てる会社の……」
そこまで言ってから、親父はちらりと僕を見る。
言葉を飲み込んだ。
――ああ。
もう、“分かる人には分かる”空気になっている。
父は何も答えなかった。
ただ曖昧に頷き、買い物を済ませる。
家に戻ってから、父がぽつりと言った。
「お前、何か言ったか?」
「何も」
それは、本当だった。
僕は名前を口にしていない。
断定もしていない。
買えとも、儲かるとも、言っていない。
それなのに。
翌日、別の人が来た。
その翌日には、また別の人。
共通しているのは、みな「名前」を直接は言わないことだ。
「最近、よく出るやつ」
「あれ、どう思う?」
「まだ早いよな?」
質問は曖昧で、答えも曖昧で済む。
だが、その曖昧さが、噂を長生きさせる。
――危ない。
噂は、制御できない。
それは未来を知る者にとって、最も厄介な存在だった。
僕は、答え方を変えた。
「名前が出るってことは、消えない会社です」
「でも、期待されすぎると、失敗します」
「今は、見てる人が多すぎます」
言葉を、わざと鈍くする。
熱を下げる。
だが、効果は逆だった。
「ほらな」
「やっぱり注目されてるんだ」
「見てる人が多いってことは……」
人は、自分の聞きたい部分だけを拾う。
――言っていない言葉が、勝手に補完されていく。
ある日、父が会社から帰ってきて、珍しくため息をついた。
「お前の話がな……」
そこで言葉を切る。
「妙に広まってる」
胸が、きゅっと縮む。
「俺は何も言ってない」
「分かってる」
父は靴を脱ぎながら続けた。
「だが、“慎重だ”“煽らない”“変なことは言わない”――そういう評価がついてる」
それは、最も困る種類の信用だった。
否定できない。
否定すると、逆に怪しまれる。
その夜、僕は眠れなかった。
噂は、相場を動かす。
相場が動けば、注目が集まる。
注目が集まれば、誰かが必ず“当てよう”とする。
そして、外れたとき。
責任は、噂の発生源に戻ってくる。
――源は、僕だ。
翌週、決定的な出来事が起きた。
父が、銀行で呼び止められたのだ。
「少し、立ち話を」
窓口の人間ではない。
奥から出てきた、年配の男。
「最近、ある会社の名前を、よく耳にしましてね」
父は、何も答えなかった。
「買えとは言われない。ただ、“覚えておけ”と言われるそうだ」
父の視線が、一瞬だけ僕に向く。
「不思議な話です」
男は笑った。
「人は、“買え”より、“覚えておけ”のほうが信用する」
その瞬間、理解した。
――噂は、もう個人のものじゃない。
帰り道、父が言った。
「お前、どうするつもりだ」
問い詰める声ではなかった。
選択を委ねる声だった。
僕は、少し考えてから答えた。
「距離を取る」
「逃げるのか?」
「違う」
首を振る。
「名前から、離れます」
当てない。
語らない。
だが、消えもしない。
噂が価値になるなら、
次は――沈黙が価値になる番だ。
昭和の相場は、まだ静かだ。
だが、静けさの下で、確実に何かが動き始めている。
それを一番よく知っているのは、
未来を知る僕自身だった。
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