第7話 「助言という仕事」

――当てすぎない技術


 父は何も言わなかった。

 だが、何も言わないという選択そのものが、ひとつの変化だった。


 翌朝も、父は同じように新聞を広げた。畳の上、湯のみ、紙の音。いつもと同じ光景。だが、株価欄を読む時間だけが、ほんの少し長くなっている。


 僕はそれを、声に出さずに見ていた。


 ――もう十分だ。


 未来を一度口にすれば、それは連鎖する。

 だから僕は、二度目を出さなかった。


 その代わり、別のところから変化は始まった。


日曜の午後、父の同僚が家に来た。

会社帰りに寄っただけ、という体裁だったが、玄関での靴の揃え方や、座布団に座 るまでの間に、妙な緊張が滲んでいる。


「いやあ、突然すまないな」


 その人は、新聞を小脇に抱えていた。


 父と同じ年頃。

 だが、指先が少し落ち着かない。

 ――この人は、迷っている。


 話題は最初、世間話だった。

 景気の話、会社の愚痴、給料の伸び悩み。昭和の居間で交わされる、ありふれた会話。


 やがて、その人は新聞を広げた。


「実はな……」


 株価欄を指でなぞりながら、言葉を選ぶ。


「最近、ちょっと気になる名前があってな」


――来た。


 父はすぐに反応しなかった。

 ただ一度、僕の方をちらりと見て、それから新聞に視線を戻す。


「気になるなら、調べりゃいい」


「それがな、調べても、よく分からん」


 昭和の情報量は、薄い。

 未来を知る僕からすれば、信じられないほどに。


「記事は小さいし、数字も少ない。だが、妙に名前だけは出てくる」


 その“妙”が、今はまだ言語化されていないだけだ。


 僕は黙って、お茶を飲むふりをしていた。

 ここで口を出せば、簡単だ。

 だが、それは“未来を教える”ことになる。


――それは、仕事じゃない。


 父が、ゆっくり口を開いた。


「気になるってのはな」


 新聞を畳み、指で叩く。


「分からないってことだ」


 同僚は、少し驚いた顔をした。


「分からない?」


「ああ。分かってりゃ、もう買ってる。迷うってのは、情報が足りない証拠だ」


 父の声は、淡々としていた。

 だが、その言葉は、相手の肩の力を抜いた。


「じゃあ……どうすればいい?」


父は、すぐには答えなかった。

 代わりに、僕の方を見た。


「お前なら、どう思う?」


 急に振られて、心臓が一拍跳ねる。

 だが、逃げるわけにはいかない。


 ――当てない助言をしろ。


「うーん……」


 子どもらしく、少し考えるふりをしてから言う。


「今すぐ買わなくていいと思います」


 同僚が、苦笑する。


「それじゃあ、何も始まらないじゃないか」


「でも、名前を覚えておくのは始まりです」


 僕は新聞を指さした。


「ここに出てるってことは、消える会社じゃない。でも、大きくなるかは、まだ分か らない」


 これは、嘘ではない。

 未来を知っていても、今は“分からない”が正しい。


「だから、次に名前を見たときに、また考えればいい」


 同僚は、しばらく黙った。


「……それだけか?」


「それだけです」


 言い切ると、父が小さく頷いた。


「悪くない」


その一言で、空気が変わった。


 同僚は新聞を畳み、深く息を吐く。


「不思議だな。何も決まってないのに、少し楽になった」


 それが、助言の価値だった。


 当てることじゃない。

 決断を先送りにする“理由”を与えること。


 その日から、似たような相談が増えた。


 父の同僚。

 近所の人。

 銀行の窓口で顔を合わせる知り合い。


 誰もが、聞いてくる。


「今、どう思う?」

「買い時か?」

「危なくないか?」


 僕は、決して未来を言わなかった。


 代わりに、こう答える。


「今は、考える時間です」

「急がなくていい」

「名前を覚えておくだけでいい」


 不思議なことに、それで十分だった。


 昭和の相場では、情報よりも、納得が先に必要だった。


 そして、気づいた。


 ――これは、仕事になる。


当てない。

 煽らない。

 だが、逃げさせもしない。


 助言という名の、静かな介入。


 未来を知る僕にとって、

 それは初めて“安全な居場所”だった。


 この時代で生き残るための、

 最初の技術だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る