第6話 「父と新聞と、ひとつの名前」
――初めて“未来”を口にする日
父は毎朝、同じ時刻に新聞を広げる。
畳の上に正座し、湯のみを右手に置き、紙面を折る音だけが居間に落ちる。その姿は、昭和という時代そのもののように、変わらず、疑わず、動かない。
僕はその背中を、いつも少し離れたところから見ていた。
新聞の株価欄は、今の感覚からすれば驚くほど貧弱だ。小さな文字、限られた銘柄、終値だけが淡々と並ぶ。だが父は、その欄を決して飛ばさない。政治面よりも、社会面よりも、先にそこへ目を落とす。
――この人は、分かっている。
派手な投資家ではない。だが、金の重さと怖さを、体で知っている人間の読み方だ。
父は会社員だった。給料袋を大切に扱い、余った金は派手に使わず、郵便局と銀行に分けて預ける。株は「博打に近いが、完全な博打でもない」と言う。その距離感が、いかにも昭和の父親らしい。
その日も、いつもと同じ朝だった。
「……ん?」
父の指が、株価欄の一角で止まった。
ほんの一瞬のことだったが、僕は見逃さなかった。
「どうしたの?」
軽い調子で声をかける。小学生の息子が、新聞に興味を持つのは不自然ではない。むしろ父は、少し嬉しそうに顔を上げた。
「いや、なんでもない。ただ……」
父は新聞を指で軽く叩いた。
「この会社、最近よく名前を見るなと思ってな」
その名前を、僕は知っていた。
――知りすぎるほどに。
未来で、何度も目にした企業名。急成長し、注目を集め、やがて市場の空気を変える存在になる。だが今は、まだ小さく、誰も本気では見ていない。
胸の奥が、静かに軋んだ。
言ってはいけない。
言えば、すべてが変わる。
これまで僕は、“当てすぎない”ことを徹底してきた。聞かれなければ答えない。聞かれても、核心は避ける。それが、生き残るためのルールだった。
だが、今は父だ。
この人は、無闇に吹聴しない。
この人は、数字よりも「納得」を重んじる。
――一つだけなら。
「……それ、たぶん」
声が、少しだけ震えた。
「しばらく名前、出てくると思うよ」
父がこちらを見る。
探るような視線ではない。ただ、理由を待つ目だ。
「どうしてそう思う?」
逃げ道は残さなければならない。
「新聞に出るってことは、何かあるってことでしょ。急にじゃなくて、じわじわ」
自分でも驚くほど、子どもらしい理屈だった。
だが父は、すぐには否定しなかった。
「……なるほどな」
父は新聞に目を戻し、もう一度その名前を眺める。
「確かに、急に大きくなる会社ってのは少ない。前触れは、だいたいこういうところに出る」
湯のみを持ち上げ、一口すすり、そしてぽつりと言った。
「だが、名前が出るからって、すぐに金を突っ込むのは危ない」
その言葉に、僕は内心で息をついた。
――よかった。暴走しない。
「うん。だから……」
ほんの一瞬、迷ってから、続けた。
「すぐじゃなくて、覚えておくだけでいいと思う」
それは、ほとんど助言ですらなかった。
だが、父は小さく笑った。
「お前にしては、ずいぶん慎重だな」
新聞を畳み、父は僕の頭に手を置く。
「まあ、名前を覚えておくくらいなら、タダだ」
その一言で、会話は終わった。
父は立ち上がり、仕事の支度を始める。
居間には、いつもの朝が戻る。
何も変わっていない。変わったようには、見えない。
だが、僕は知っていた。
今、確かに――未来が、言葉としてこの家に落ちた。
たったひとつの名前。
たったそれだけで、十分だった。
昭和は、まだ静かだ。
だが、この家の新聞の端に、未来は確かに引っかかった。
それだけで、この日は、忘れられない日になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます