第3話 「帳簿と嘘」

 夜の部屋は、昼間よりずっと静かだった。


 六畳一間。

 畳の目が擦り切れ、壁のカレンダーにはプロ野球選手の笑顔。

 テレビは居間にしかない。

 子供部屋にあるのは、学習机とラジカセ、それだけだ。


 机の上に、俺は一冊のノートを広げていた。


 表紙には、鉛筆でこう書いてある。


「おこづかいちょう」


 いかにも小学生らしい名前。

 だが、中身は違う。


 帳簿


 左に日付。

 次に「仕入れ」。

 その隣に「販売」。

 最後に「差引」。


 字は拙い。

 わざとだ。


(達筆すぎると、疑われる)


 50歳の俺の経験が、無意識にブレーキをかける。


 昨日の記録。


 3月12日

 チョコ菓子 10円 × 6

 販売 20円 × 6

 差引 +60円


 たった60円。

 だが、この数字には確かな意味があった。


(再現性がある)


 一度きりの偶然じゃない。

 場所を変えれば、何度でも同じ歪みが生まれる。


 昭和の空気


 外から、風呂場の音が聞こえる。


「次、お父さんどうぞー」


 母の声は若く、少し高い。

 この声を聞くたび、胸の奥がざわつく。


(この人は……まだ、何も知らない)


 俺が病室で看取った未来も。

 俺が失敗し続けた人生も。


 だからこそ――

 絶対に、怪しまれるわけにはいかない。


 嘘の必要性


 翌日。

 学校の帰り。


 同級生の佐藤が、俺のランドセルを覗き込んできた。


「なあ、最近やたらお菓子持ってない?」


 来た。

 最初の関門。


 俺は肩をすくめる。


「親戚が送ってくれるんだ」


「いいなー」


 昭和だ。

 この一言で、会話は終わる。


(便利な時代だよ)


 SNSもない。

 証明を求められることもない。


 嘘は、最低限でいい。


欲の芽


 駄菓子屋のおばちゃんは、俺の顔を覚え始めていた。


「また来たねえ」


「うん」


 俺は、少しだけ買う。


 一気に買わない。


 小学生が不自然な量を持てば、必ず目立つ。


(“少しずつ”が、最強だ)


 母の違和感


 問題は、家だった。


「最近、お菓子多くない?」


 夕食後。

 母が、机の引き出しを開けながら言った。


 心臓が、わずかに跳ねる。


「友達と交換してる」


 これも嘘。

 だが、子供が言いそうな嘘だ。


「ふーん……」


 母はそれ以上追及しなかった。

 だが、その「間」が怖い。


(大人は、勘が鋭い)


 初めての恐怖


 その夜。

 俺はノートを閉じ、布団に潜り込む。


(これは……危険だな)


 金を稼ぐ。

 それ自体は簡単だ。

 

 だが――

 “周囲に溶け込む”のが、一番難しい。


 50歳の俺は知っている。


 成功より先に、

 違和感が潰しに来る。


 調整


 翌日から、俺は行動を変えた。


 ・毎日はやらない


 ・利益は半分使う


 ・家にはお菓子を置かない


 引き出しの硬貨も、減らす。


(増えすぎたら、使え)


 これも、経験だ。


 小さな失敗


 ある日。

 読みを外した。


 別学区の店で、売れると思った菓子が動かない。


 3日。

 4日。


 ついに賞味期限が近づく。


(……来たか)


 初めての在庫リスク。


 俺は、その菓子を自分で食べた。

 損失は20円。


 だが、笑ってしまう。


(安い授業料だ)


 帳簿の意味


 夜。

 再びノートを開く。


 差引の欄に、赤鉛筆で小さく書く。


「-20円」


 消さない。

 ごまかさない。


 (帳簿は、嘘をつかない)


 嘘をつくのは、

 人に対してだけでいい。


 決意


 布団の中で、天井を見つめる。


 小学生の体。

 昭和の時間。

 50歳の頭。


(焦るな)


 競馬も、株も、まだ先だ。


 今はただ、

 “疑われない技術”を磨く。


  帳簿と嘘。


 この二つが、

 俺の最初の武器だった。


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