西日の差す喫茶店にて16-白い影-

蓮見庸

西日の差す喫茶店にて-白い影-

 駅の改札を通って外に出ると、雪が舞っていた。

 わたしはコートのえりを合わせ直した。

 見上げると空は薄雲に覆われ、風に乗ってはらはらと舞う白いひとひらは、春に見た桜の花びらのようだった。

 最近は雪が積もるのはまれだから、こんなに早く降ってくるとは思わなかった。


 駅前にあるちょっとした商店街。

 ずっと昔からあるような洋品店、雑貨屋、100円ショップやいくつかの飲食店。『SALE』のカゴの中にはサンタクロースとトナカイのぬいぐるみが無造作に投げ入れられ、まだクリスマスの飾り付けが残っている店があるかと思うと、入口の脇に門松が置かれているところもある。

 みかん箱が積まれ正月飾りが置かれたスーパーマーケットの出入口では、『初詣』と朱色の筆文字で書かれた神社の貼り紙が目に入ってきた。

 年末は慌ただしく過ぎていく。


 わたしは喫茶店を訪れるのは今年はこれが最後になるだろうと思いながらバス通りを歩いていると、少し前を背の低い女が歩いていた。

 肩のあたりで切りそろえられた銀髪混じりの白髪で、白いコートを着ていた。

 わたしを道案内するようにゆっくりと歩き、角を曲がる時に横顔が見えた。

 まるで少女のような表情をした初老の女だった。

 女はそのまま喫茶店へと吸い込まれるように入っていった。

 空を舞う雪がすこし増えてきたような気がした。


 わたしもその女の後を追うように店に入った。

 暖かい店の中は今日もコーヒーの香りが漂い、弦楽器の静かな旋律が流れていた。

「いらっしゃいませ!」

 マスターのめいがカウンターの奥から明るい声で迎え入れてくれ、手前にいたマスターはにこやかな表情で軽く会釈をしてくれた。

 見ると席は満席だったが、店の中央の席に座っていた肌が黒く背の高い外国人風の若い男と、化粧の濃い派手な格好をした若い女が立ち上がり、男が先ほどの白髪の女に向かってカタコトの日本語で「どうぞどうぞ」と話しているのが聞こえた。

 女はそれに対して、

「ご親切にありがとう。かしてしまったようでなんだかわるいわね」

と丁寧な言葉で返していた。

 男はまた「だいじょぶです、どうぞどうぞ」と言い、若い女とともにコートを手にしてレジへと向かった。

 わたしはどうしようかと迷っていたが、マスターが手招きでその女が座った席を案内した。相席ということなのかと思って席に向かうと、ちょうどその隣の窓際の席にいた男が立ち上がったので、わたしはそちらに座った。


「こんにちは、寒くなりましたね! ご注文はお決まりですか?」

 マスターの姪が注文を取りに来た。やっぱり彼女がいると店の雰囲気は明るくなる。

「ブレンドコーヒーとケーキのセットをお願いします」

 わたしはあまり深く考えずいつものように注文したが、今年最後だから、もっと別のものを頼んでみてもよかったと少しだけ後悔した。

 けれどまあ、年が明けてすぐ来るかもしれないから、その時は何を頼もうかと思い直してメニューを手にした。

 飲み物はいろいろあるけれど、でも結局ブレンドコーヒーを頼んでしまうんだろうなと思いながらカウンターを眺めると、奥の棚にはカップが整然と並べられていて、何となく左から順にひとつふたつと数えてみた。

 遠くにあるからよくは見えないが、いったい何客あるのだろうと考えていると、マスターがそのうちのひとつを手にして、慣れた手付きでコーヒーを注ぐのが見えた。


「ここにはよくいらっしゃるの?」

 マスターの手元でコーヒーがカップに吸い込まれるように流れるのを見ていると、隣の席の白髪の女が話しかけてきた。まるで鈴が鳴るような声だった。

「あ、はい。よく、というわけでもないのですが、今年の春に初めて来てから時間のあるときに来ています」

「あらそうなの。わたしもよく来るから、じゃあいつかお会いしているかもね」

「そうかもしれませんね」

「ここは雰囲気がいいものね」

「ええ、ほんとに」

「わたしはずっと昔からこのお店を見てきたのよ」

「そうなんですか。常連さんなんですね」

「そんなところね」

 そんな会話を交わしていると、今度はマスターがお盆に載せたコーヒーとチーズケーキをテーブルに並べた。

「ごゆっくりどうぞ」

 マスターが言うと、彼女も同じように「ごゆっくり」と言ってほほえんだ。

 女のテーブルの中央にはメニューが置かれたままで、両手を組んでほがらかな表情で店内を見回している。

 水も置いていないが、常連だと言っていたから水は断っているのかもしれないし、何か時間のかかるものを注文したのだろうと、わたしは気にすることなくカバンから手帳とスマートフォンを取り出した。


 コーヒーカップを口元に持ってくると、一瞬でしあわせな香りに包まれた。苦味のあるコーヒーはチーズケーキのほどよい甘さととてもよく合う。

 思い返してみると、この喫茶店に通うようになって新しい発見や出逢いがあった。

 その中でもいちばん大きいのはやっぱりマスターの存在。マスターがいるからこの喫茶店に通い続けているといってもいいかもしれない。

 そして彼が作り上げてきたであろう店の穏やかな雰囲気もとても気に入っている。

 店に来るいろいろな人たちも見てきた。そのほとんどは知らない人だけれど、何度か通ううちに話したことはないものの見知った顔がいくつか出てきた。隣の女は見覚えがないから、おそらくタイミングが合わなかったんだろう。

 コーヒーの豊かな香りと音楽の旋律に満たされたこの喫茶店で、日常から離れた時間を過ごしていると、自分と彼らの、昔と今とこれからの物語が紡がれていく道の交差点に立っているようで、こうして人はそれぞれ自分の人生を生きているんだと実感できるようになった。


 その時、スマートフォンにメッセージが入ってきた。

 それはすこし疎遠になっていた友人からのものだった。近くまで来る用事があったから、時間が合えば会わないかという。

 もちろん会いたい。わたしはすぐに返事を返した。

 ここからならまだ時間の余裕はあるから、もう少しゆっくりしてから行くことにした。

「お友達に会うのね?」

 女が話しかけてきた。

「あ、はい。そうなんです。とても久しぶりに会うんです」

 どうして女はわたしが友人に会うとわかったのか。けれどわたしは何のためらいもなく応えていた。

「それはいいわね。きっと向こうも楽しみにしてるわ」

「ありがとうございます」

 女のテーブルには、メニューの他にはまだ何も置かれず、相変わらず手を組んでにこにこしていた。


 ケーキの最後のひと切れを味わい、コーヒーの最後のひと口を飲み終えたわたしは、「お先に」と言いながら女に会釈をしてレジへ向かった。

 ちょうど客がふた組入ってきて、マスターはわたしがいた方の席を案内した。

 ふた組も?と思っていると、白髪の女は彼らに席を譲るようにすっと立ち上がった。

「ありがとうございました。お忘れ物はございませんね」

 いつものようにマスターが見送ってくれた。

「はい。今日のコーヒーとケーキもおいしかったです」

 わたしはそう言って何気なく店の中を振り返ると、彼女の姿はもうどこにもなく、そればかりか、まるで初めから誰もいなかったかのように、そのテーブルの上にはメニューがきれいに置かれたままで、いま入ってきた若い男女が席に着いたところだった。

「先ほどの方はどこかに行かれたのですか? 常連だとおっしゃっていましたが」

 わたしは不思議に思いマスターに聞いてみた。

「どの方でしょうか?」

「白髪の白いコートを着た女の方です」

「今日はお客様も多いので、ちょっと記憶にないのですが……」

 マスターは少し考えているようだった。

「わたしの隣の席にいた方ですが」

「お隣の席はずっと空いていましたよ」

「え?」

 わたしは予想外のことを言われて戸惑ってしまった。

「……ひょっとしたら、あれかもしれませんね」

 マスターは姪の様子をちらりと伺ってからわたしに言った。

「たまにですけれど、同じようなことをおっしゃる方がいらっしゃるんです。そんなときは、失礼ですけれど、お疲れになっていらっしゃるんじゃないですかとお答えしているんです」

「でもほんとうに……」

「ええ、わかります。わたしも同じような経験がありますから。確かにお客さんが入ってこられたと思ったのに、気がついたらいなくなっている時があるんです。おかしいなとは思うのですが、別に何かを取られたわけでもないですし、深く考えないようにしているんです。怖いとかなんとかそんな感情もなく、むしろ、なんだか誰かに見守られているような気になるんです。この店を守ってくれているというか……」

「お店を守ってくれている?」

「ええ、何となくですけれどね。お客様の中に、この土地の守り神様みたいな人が混じってるんじゃないかって思ったりする時もあるんです。まあ、誰も真剣に受け止めてくれる人はいませんけれど、長く働いているとそんな不思議な体験をしたりすることもあるんです。あ、へんな話をしてすみません。また姪に怒られてしまいます」

 マスターは笑いながらふっと窓の外を見た。

「雪が降っているんですね」

 見ると、大きな雪の欠片カケラが降っていた。

「積もるでしょうか?」

「空もちょっと明るくなってきましたし、すぐにやむでしょう」

 マスターの言葉通り、見る間に雪はやみ西日が差し込んできた。

 冬の弱い光だった。

 その光に照らされて、窓の外を白い人影が横切った気がした。


「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」

 長い黒髪の女性がひとり、ベージュ色のコートを脱ぎながら店に入ってきた。

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