第10話 走れメロス
【起】
学期末の放課後、校舎は巨大な石棺(せっかん)のような静寂に包まれていた。
教壇に立つ太宰治の背後は、冬の斜陽に焼かれた黒板が、血を流すような残照を反射している。太宰は、自らの魂の端を噛み切るような、震える手で『信頼』と書き記した。
「諸君。メロスは走りました。けれど、彼が追い抜いたのは時間の速さではない。自らの内側に巣食う、『あいつも今頃、僕を笑って裏切っているのではないか』という、底なしの、泥のような不信の闇です。……現代という、一ピクセルの誤差も許されぬ冷徹な演算の世界において、誰かを信じるという行為は、もはや一つの精神疾患、あるいは最も贅沢な『心中』に近い」
太宰の瞳は、自嘲と慈愛が混濁した、形容しがたい輝きを放っていた。その言葉は、最適解を求めることに疲れ果てた生徒たちの、皮膚の薄い部分を鋭く抉った。
【承】
試練は、二人の少年、マコトとユウタに託された。
管理社会の歪みが、彼らを「共犯」か「裏切り」かの取捨選択へ追い詰める。
人質として凍てつく教員室に留め置かれたユウタ。そして、潔白を証明する唯一の欠片を求め、冬の豪雨の街へと解き放たれたマコト。
マコトの掌の中にあるスマートフォンは、もはや通信機器ではない。それは、疑心暗鬼を増幅させ、魂を腐敗させる「黒い鏡」であった。
『ユウタはもう、お前を売った。あいつの親が、学校と取引をしたらしい』
真実とも嘘ともつかぬ情報の濁流。アルゴリズムが弾き出した、最も効率的で、最も卑怯な生存戦略。
マコトの足は、冷たいアスファルトの上で、鉛のように重くなる。信じることに何の報いもないのなら、このままこの冷たい雨の中に溶けてしまいたい。裏切られる前に、裏切ってしまいたい。
【転】
その時、雨の帳(とばり)の向こうから、一人の影が立ち現れた。芥川龍之介であった。
「……マコト君。地獄の底を覗いた者にしか、見えない糸がある」
芥川の声は、氷が割れるような透明な鋭さを持っていた。
「君が走るのは、友のためではない。……今日まで君を繋ぎ止めてきた、『自分は人間である』という最後の一線を、守り抜くためだ。行きなさい。その傷口こそが、君の羽なのだから」
マコトは、咆哮した。
彼はスマホを雨の濁流へと投げ捨て、文字通り「己」を捨てて走り出した。
肺が焼け、筋肉が断裂し、意識が遠のく中、彼の脳裏を去来したのは、かつて太宰が教壇で流した、あの理由のない涙の温もりであった。
【作中作:走れメロス2025】
その昔、ある「信頼の死に絶えた都」に、二人の囚人がおりました。
彼らは互いの網膜に投影されるARの数値だけを信じ、心という名の、不確実で曖昧な化け物を、長い間無視し続けてきたのでございます。
システムは彼らに問いました。
「隣人を差し出せ。さすれば、お前の罪(スコア)は清算されよう」
一人の男が、その誘惑に負け、決定ボタンを押そうとした、その瞬間でございました。
彼の記憶の底に、かつて親友と分かち合った、あの安っぽい缶コーヒーの、馬鹿げたほどの温かさが蘇ったのです。
それはデータ化できぬ、一円の価値もない、しかし何物にも代えがたい「記憶の体温」でございました。
男は、自らの脳に埋め込まれたチップを、爪で引き剥がさんばかりに悶え、叫びました。
「俺は、システムに従う歯車ではない! 俺は、あいつを待たせている、ただの愚かな友人だ!」
男は、計算不能な熱量を持って、親友の待つ処刑台へと、その肉体を弾け飛ばしました。
システムが弾き出した「裏切りの確率九九%」という数値を、男の流したたった一滴の汗が、無慈悲に、そして美しく、塗り潰したのでございます。
【結】
期限を告げる鐘の音が鳴り響く刹那。マコトは教員室の重い扉を、肩でぶち破るようにして飛び込んだ。
そこには、あらゆる圧力を撥ね除け、ただ静かに、親友の足音だけを信じて待ち続けていたユウタがいた。
二人の瞳が交差した瞬間、そこにはもはや、言葉という名の無粋な介在など不要であった。ただ、泥にまみれた手と手が、万力のような力強さで握り合わされた。その掌の熱さこそが、現代という冷え切った海において、唯一の「正解」であった。
放課後。茜色の光に溶けゆく校庭を見下ろし、三人の文豪が、肩を並べて佇んでいた。
「信頼とは、理性の敗北です。……けれど先生、その敗北の中にしか、僕たちは『神様』を見つけられない。そうは思いませんか?」
太宰が、柔らかな光に目を細め、どこか遠くを見つめるように微笑んだ。その表情は、かつてのどの絶望よりも、神々しく、そして儚かった。
「文学は、人を救うための薬ではない。それは、自らの内側に潜む『深淵』を照らし出すための、消えゆく蝋燭の火だ。……だが、その微かな光に、これほどまでに胸が締め付けられるのは何故だろうな」
漱石が、重厚な外套の襟を立て、沈みゆく太陽に、深々と一礼を捧げた。
「それでも、私たちは、明日もまた言葉を紡ぐ。たとえそれが、他者を傷つけ、自らを焼く業火になろうとも。……私たちは、この泥濘のような教壇から、何度でも、不確かな糸を垂らし続けるのだ」
芥川が、自らの業を静かに、しかし誇り高く背負い、眼鏡の奥の瞳に、不屈の焔(ほむら)を灯した。
三人は、それぞれの孤独を、それぞれの正義を抱えたまま、一筋の光に向かって歩き出した。
黒板の片隅には、誰の手によるものか、消えかかったチョークの文字が、ひっそりと残っていた。
——『それでも、心は、ここにある。』
文豪たちの、美しくも残酷な現代の戦いは、ここから始まる。
【大団円】
現代文豪転生録:芥川先生、今日も誤読される。 不思議乃九 @chill_mana
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